Lost Words
    神は始め、天地を創造された。「光あれ。」――こうして、光があった。
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  第四章 混血児の隠れ村  
* * *
――殺して、しまった。


「お兄様…」
 アベルは、夢の中で、しくしくと泣いた。
 追いかける。
 ひたすらに追いかける。
 様々な光景が、浮かんでは消え、消えては浮かぶ。
 優しかったスヴェルお兄様。
 優しかったソフィアお姉様。
(…待ってください…!!)
 優しい日々が、零れ落ちるように後ろに流れていく。
 追いかける。
 ひたすらに追いかける。
(待って…!! 置いて、いかないで…!!)
 息が乱れる。
 胸が苦しい。
 追いつけない。
 去っていく。
 消えていく。
(お兄さま…)
 ふわり、と一人。
 青銀の髪が零れて、手が差し伸べられた。
 白い布の下に隠れた目の色は分からない。
 けれど、その優しい気配は、分かる。
 姿が、近づいてくる。
 彼は、遠ざかっていかない。
 お兄様。
 ――大好きだった、お兄様。
 お兄様は、私から離れていかない――。
 お兄様は――、私を…。
(フェイお兄様!)
 こちらに向けられた手。
 つかもうと必死に手を伸ばす。
 お兄様は、もうすぐ近くにいる。
 白い肌。
 微笑んだ口。
 うっすらと開いた唇から、懐かしい声が無邪気に響いた。

『アベル』


 ――昔、退屈な聖典の授業の中で、当時左大臣だった、バティーダから、その『物語』を聞いた。
 昔――そう、創世神の下、天使と、魔族と、感情を持ちえない人とが三つの世界にわかれて共存していた頃の話――神話だ。
 カインとアベルと言う天使の兄弟がいた。アベルは神に愛され、カインは神に疎んじられた。カインは神を慕うあまり、アベルを憎み、そして、とうとう自分の弟を殺してしまった。
 殺してしまった瞬間――カインは自分の業を悔いた。
 彼は自分から神に堕天を申し出た。
 天使にとっては、何よりも屈辱である堕天を…自ら申し出たのだ。
 しかし、神は、自分を愛するが故に、業に及んでしまったカインの気持ちを汲み取り、ずっと天界に居つづけることを許した、と言う。

 『アベル』。
 それは、兄に殺された天使の名前。
アベルがもしも神に愛されたいという兄の気持ちに気付いていたら、何かが変わっていたんじゃないか。
 アベルが気付かなかったせいで、カインは弟を殺してしまった。さらに、堕天をも許されず、一生『弟殺し』の後ろ指を差され続けることになったのではないか――。

 それは、自らへの戒めの名前。
 お兄様を『殺した』自分への、戒めの――。


『アベル』
 微笑んだ唇が、無邪気にその名を――兄を殺した『自分』の名を呼ぶ。
 私が、お兄様の無実を証明できなかったから…。
 お兄様は悪くない、と言い切れなかったから――。
 私の記憶が、失われてしまったせいで。
『アベル』
 お兄様が、私を呼ぶ。
 罪深い私の名前を。
 お兄様が。
 私に『殺された』お兄様が。
 お兄様を『殺した』私の、罪深い名前を…――

「いや…!!」
 アベルは、ぽろぽろと涙を流した。
 いやいやをするように、首を振る。
 耳をふさいでも、その声は身体に響き渡るように入り込んできた。

『アベル』

「やめて…!! やめて…くださ…」

『アベルが、僕を――』

「やめて…!!!」
 引き裂かれた悲鳴が、喉の奥で鳴った。
 つんざく叫びをすり抜けて、どこまでも微笑んだ音色が、耳の奥にするりと。
 囁かれた。

『殺したんだよ』



「……!!!」


「あらあら、可哀想に」
 くすり、と微笑んで、七君主は、自らの胸の中で叫ぶ、少女の涙を聞いた。
 くりっとした瞳を虚空に向けて、綺麗な赤い三日月のように、唇をしならせた。
「自分の『夢魔』に捕らわれて」
 相当、『お兄様』が、大切なんですね、と。
 彼女は、虚空を見上げた。
 そこには、細い針のような魔力を、幾数十本、身体に刺し止められ、空に縫い取られた混血児の姿がある。
 それは、背から広げられた純白の片羽にも容赦なく食い込み、朱色の赤に染め上げていた。――もう片羽は、抉られたように途中で折られ、一面に濃厚な赤ワインを浴びせ散らかしたかのようだった。
「ねえ、あなたもそう思うでしょう?」
 ぽたぽたと、血の雫が零れていた。
 それは、抵抗の跡のようにも見えるし、かろうじてこの世に繋がれた生命の証のようにも見えた。
 意識がないのか、うなだれた顔の奥の表情は、銀の髪に隠されて、全くうかがい知ることが出来ない。
 その銀の髪も、無残に切り取られ、短い残骸が毛先を赤に染めて、頬に何本か散り落ちていた。
「まったく…手こずらせてくださいましたね…」
 不死鳥に邪魔されたら、大変なことですからね、と少女はいたずらっ子を叱るように目を細める。
 くすりと微笑んで、その頬をなぜた。
 血の気のない肌は、反応すら返さない。
「ああ、本当にかわいそうですね。あれほど、自分を責めていた子が…。あれほど、お兄様を殺したと悩んで…自分の名前まで捨ててしまった子が…他の誰でもない、『あなた』を、殺すんですからね」
 ふふ、と笑んだ唇の赤が、まるで血を吸い取ったようだった。
「ね、フェイお兄様」

 そして少女は、静かに哂う。

* * *
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