――???
大好きなお兄様が、私の名前を呼ぶ。
『アベル』。
罪深い天使の名前。
それは、私がお兄様を殺した、罪の証。
『アベル』。
青銀の髪が、さらさらと風に揺れている。
白い布に隠された目の奥は見えないけれど、優しい眼差しを私の方に向けているのだろう――罪深い、殺人者に。
『アベル』。
私は、お兄様を殺した大罪人。
決して癒えることのない業。
『アベル』。
お兄様の髪が、さらさらと風に揺れている。
お兄様の口元は、美しく微笑んでいる。
決して届かない幻に。
私は、ただ頭を垂れて謝るだけ――
■
「――フェイおにいさま! 待ってください…!!」
そう言って小さな妹は、いつも後ろから追いかけてきた。
あの頃は、自由に操ることのできなかった、混血児の銀髪と藍色の瞳。
髪は、青銀に染めることで、ただの『異民族』と偽ることはできたけれど、瞳の色は、どうしようもなくて。
覆われた視界での生活に、全く不自由がなかったわけではなかったけれど、布ごしであってもヒトの気配が『見える』から、格段苦労はしなかった。
「――。早くおいでよ」
いつも一緒に遊ぶ、スヴェルもソフィアも。
足の遅い末の妹を待ちきれずに、すぐに先に行ってしまう。
だから、いつも自分が、小さな妹と共に、兄と姉の後を追う。
小さな手は温かくて、きゅっと握り返してくれるのが、とても嬉しかった。
二人で足を並べてゆっくり歩いていく。
柔らかい草を踏みしめて目指すのは、『天と地と地』が交わる地――シルヴェアに建てられた光と闇の石板の安置された、鏡の神殿。
(…?)
そこに近づいたとき、何かの違和感が――彼の五感を襲った。
実体のない、漠然とした不安。
視界の閉ざされた闇の中、――そう、例えるならば、黒い霧が――実体のない靄がかかったような不可解な感覚が――ぞわり、と肌を撫ぜた。
「…!!」
思わず、小さな手を振り解いて駆け出していた。
体当たりするように黒い靄の中に突っ込んでいく。
むっとするような、湿り気の在る空気が、途端に口と鼻を覆った。
手探りで、鏡の神殿の扉に触れる。
扉のあるはずの場所は――何もなかった。
開かれていた。封じられていたはずの場所が。
思わず、目の覆いを取る。
肌で感じた黒い空気は、開けた視界に一見見えない。
だが。
(…この魔力…)
透明な腕で、優しく――しかし根元から、首元を締め上げられるかのような。
『ここ』に先に入ったはずの、兄姉はどうなったのか――。
「…」
素早く周囲を見渡した目が、ある一点で止まった。
縫いとめられたように。
そこだけくり抜かれたような、『赤』。
それを瞳に止めた瞬間、嗅覚がそのモノの正体を無意識の内に探り当てていた。
血。
その傍らに、倒れ付すのは、ばらばらと散らばる六つの石の欠片、そして――
「兄さま…」
血だまりにうつ伏せに倒れた少年の、力なく投げ出された小さな手が、何かを受け止めるように奇妙に歪んでいた。
その手を、踏みしめる、足。
「姉さま…?」
その時、よたよたと扉の向こうにたどり着いた小さな末の妹が、背後に現れたのを感じた。
「…っ!!」
とっさに、小さな身体を突き飛ばしていた。
小さな悲鳴を上げながら、ころりと扉の外に転がっていく妹の無事を見届けることなく、視界を急いで戻す。
そこに映った『姉』の姿は――
「ふふ…じゃあね。『王国を継ぐ者』」
『姉』が――否、ソフィアという名の『姉の皮をかぶった何か』が、振り上げた手を、すっと地に下ろした。
『闇』。
闇の波動が吹き付ける――
(大きな『闇』――)
それが、どうして『姉』に憑依しているのか。
彼には分からなかった。
ただ、決して開くことのなかった封印された扉が開かれた――それは、闇の石板が――そこに宿る闇が――兄や姉を踏みにじった――そう、感じた。
(兄さま…姉さま…!!)
迫りくる闇は、空気を巻き込んで巨大な塊となり、その勢いでこちらをも押し潰そうと牙を剥いてくるようだった。
荒れ狂う竜。
それは、遥か昔――彼の記憶に残る『黒き竜』の微かな記憶と、どこか遠くで一致した。
「…」
炎が迫り、身を焦がすまで、瞬きの間もなかった。
その瞬間に、様々な光景が脳裏を巡っていた――滅多に光を映すことを許されなかった、碧色の瞳がいくつかの情景を移し出し――最後に黒い炎の晒されて――全てが闇に飲み込まれていった。
――フェイお兄さま!
幼い妹の影が、脳裏を過ぎる。
死んでしまった兄。
闇に取り込まれてしまった姉。
せめて、彼女だけでも――
たとえ、彼女が『混血児』を疎んでいたとしても。
『死に呪われた子』。
遥か昔、彼を一目見た時の左大臣バティーダ・ホーウェルンの言葉。
『死に呪われた子』。
だから、せめて。
だからせめて、彼女だけは――。
『死』の運命に、巻き込まれないことを。
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