Lost Words
    神は始め、天地を創造された。「光あれ。」――こうして、光があった。
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  第五章 雪原の御使い  
* * *
――???



 大好きなお兄様が、私の名前を呼ぶ。

『アベル』。

 罪深い天使の名前。
 それは、私がお兄様を殺した、罪の証。

『アベル』。

 青銀の髪が、さらさらと風に揺れている。
 白い布に隠された目の奥は見えないけれど、優しい眼差しを私の方に向けているのだろう――罪深い、殺人者に。

『アベル』。

 私は、お兄様を殺した大罪人。
 決して癒えることのない業。

『アベル』。

 お兄様の髪が、さらさらと風に揺れている。
 お兄様の口元は、美しく微笑んでいる。
 決して届かない幻に。
 私は、ただ頭を垂れて謝るだけ――


「――フェイおにいさま! 待ってください…!!」
 そう言って小さな妹は、いつも後ろから追いかけてきた。
 あの頃は、自由に操ることのできなかった、混血児の銀髪と藍色の瞳。
 髪は、青銀に染めることで、ただの『異民族』と偽ることはできたけれど、瞳の色は、どうしようもなくて。
 覆われた視界での生活に、全く不自由がなかったわけではなかったけれど、布ごしであってもヒトの気配が『見える』から、格段苦労はしなかった。
「――。早くおいでよ」
 いつも一緒に遊ぶ、スヴェルもソフィアも。
 足の遅い末の妹を待ちきれずに、すぐに先に行ってしまう。
 だから、いつも自分が、小さな妹と共に、兄と姉の後を追う。
 小さな手は温かくて、きゅっと握り返してくれるのが、とても嬉しかった。
 二人で足を並べてゆっくり歩いていく。
 柔らかい草を踏みしめて目指すのは、『天と地と地』が交わる地――シルヴェアに建てられた光と闇の石板の安置された、鏡の神殿。
(…?)
 そこに近づいたとき、何かの違和感が――彼の五感を襲った。
 実体のない、漠然とした不安。
 視界の閉ざされた闇の中、――そう、例えるならば、黒い霧が――実体のない靄がかかったような不可解な感覚が――ぞわり、と肌を撫ぜた。
「…!!」
 思わず、小さな手を振り解いて駆け出していた。
 体当たりするように黒い靄の中に突っ込んでいく。
 むっとするような、湿り気の在る空気が、途端に口と鼻を覆った。
 手探りで、鏡の神殿の扉に触れる。
 扉のあるはずの場所は――何もなかった。
 開かれていた。封じられていたはずの場所が。
 思わず、目の覆いを取る。
 肌で感じた黒い空気は、開けた視界に一見見えない。
 だが。
(…この魔力…)
 透明な腕で、優しく――しかし根元から、首元を締め上げられるかのような。
 『ここ』に先に入ったはずの、兄姉はどうなったのか――。
「…」
 素早く周囲を見渡した目が、ある一点で止まった。
 縫いとめられたように。
 そこだけくり抜かれたような、『赤』。
 それを瞳に止めた瞬間、嗅覚がそのモノの正体を無意識の内に探り当てていた。
 血。
 その傍らに、倒れ付すのは、ばらばらと散らばる六つの石の欠片、そして――
「兄さま…」
 血だまりにうつ伏せに倒れた少年の、力なく投げ出された小さな手が、何かを受け止めるように奇妙に歪んでいた。
 その手を、踏みしめる、足。
「姉さま…?」
 その時、よたよたと扉の向こうにたどり着いた小さな末の妹が、背後に現れたのを感じた。
「…っ!!」
 とっさに、小さな身体を突き飛ばしていた。
 小さな悲鳴を上げながら、ころりと扉の外に転がっていく妹の無事を見届けることなく、視界を急いで戻す。
 そこに映った『姉』の姿は――
「ふふ…じゃあね。『王国を継ぐ者』」
 『姉』が――否、ソフィアという名の『姉の皮をかぶった何か』が、振り上げた手を、すっと地に下ろした。
 『闇』。
 闇の波動が吹き付ける――
(大きな『闇』――)
 それが、どうして『姉』に憑依しているのか。
 彼には分からなかった。
 ただ、決して開くことのなかった封印された扉が開かれた――それは、闇の石板が――そこに宿る闇が――兄や姉を踏みにじった――そう、感じた。
(兄さま…姉さま…!!)
 迫りくる闇は、空気を巻き込んで巨大な塊となり、その勢いでこちらをも押し潰そうと牙を剥いてくるようだった。
 荒れ狂う竜。
 それは、遥か昔――彼の記憶に残る『黒き竜』の微かな記憶と、どこか遠くで一致した。
「…」
 炎が迫り、身を焦がすまで、瞬きの間もなかった。
 その瞬間に、様々な光景が脳裏を巡っていた――滅多に光を映すことを許されなかった、碧色の瞳がいくつかの情景を移し出し――最後に黒い炎の晒されて――全てが闇に飲み込まれていった。

――フェイお兄さま!

 幼い妹の影が、脳裏を過ぎる。
 死んでしまった兄。
 闇に取り込まれてしまった姉。
 せめて、彼女だけでも――



 たとえ、彼女が『混血児』を疎んでいたとしても。

『死に呪われた子』。

 遥か昔、彼を一目見た時の左大臣バティーダ・ホーウェルンの言葉。

『死に呪われた子』。

 だから、せめて。
 だからせめて、彼女だけは――。

 『死』の運命に、巻き込まれないことを。

* * *
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