おにいさまが、私の名前を呼ぶ。
『 』。
それは、罪深き。
あまりに罪深き私の名前――。
■
颯爽と空を滑り、ティナたちの前に音もなく降り立った少女は、アベルらしい仕種で、ひらりと雪の上に舞い降りて見せた。
雪の欠片が足元に舞い散り、ガラスの欠片が砕け散っていくときのように、きらきらと薄暗い雪空の雲を映していた。
「アベル…」
渇いた声が、白磁の大地を滑り、少女に向けて投げかけられる。
異空間へ消えた彼女を、こちらの引き出すことには成功した。
だが、問題は、むしろここから、だ。
どうにかして、副船長を助け出した後――彼女を、何とか撃退、もしくはアベルを正気に戻さなければならない。
「おい、フェイは!? フェイは、まだ生きてるんだろうな!?」
タガが外れたように、一際大きな声が上がった。
場の意識が、そちらに触れる。
身を乗り出した海賊の船長は、憔悴し切った表情を隠そうともせず、無意識に――だろう、一歩、踏み出していた。
「なあ、どうなんだよ。あいつは…まだ、無事なのか!?」
そこには、追い縋り懇願する響きさえ含まれていた。
憐れな愚者を見るような眼で、アベルは、彼を無言で見た。
慈悲をくれてやるように、右手を振った。
「――生きてはいますよ」
ふ、と空間が揺れる。
そこから、影が吐き出される。
空中に、幾筋もの細い糸で、縫いとめられた赫い羽。
そして、そこからぶら下がるように投げ出された、意識のない身体。
長かった銀の髪は、無残にも頬にかかる程度まで切り取られ、弱々しく動く赤い口元に降りかかっている。
それが、天使の羽を生やした人間、と認められるまで、ぽっかりと空白があった。
あまりに、生き物の呼吸が、なさすぎて。
「フェイ…」
悲鳴のようなため息が、ところどころから上がる。
赫い――血の色で染め抜かれた赫い糸から、ぽたり、ぽたりと雫が流れて落ちていった。
「かろうじて、生きていますけど、聞こえてはないでしょうね。このままゆっくり楽にさせてあげるつもりでしたのに」
こちら側に呼び出されてしまいました〜、とくすくすアベルは笑う。
その声は、果たして、海賊の船長に届いたのか否か。
「………」
いつもは海の青をいっぱいに映して大きく微笑んでいる瞳が、変わり果てた仲間の姿を映し込んで、言葉を失っていた。
ひたすら、ひたすらに。
赫い影を落としこんで、それが仲間の姿だと認識して。
ある瞬間、雄たけびのような絶叫が、彼の口から放たれていた。
「おぉおおおおおお!!」
近くの混血児の一人を突き飛ばし、猛然と突っ込んでいく。
無謀を越えた暴挙――それすら、彼は認識していないかのようだった。
その目が捕らえているのは、フェイの姿だけ。
奮迅の勢いで、足元の雪を蹴散らし、闇雲に手を伸ばして、彼を捉えた糸を引きちぎろうと、空を掻く。
「ロイド!」
「危ないよ!」
ティナとクルスの声が、空しくその後を追った。
カイオスですら、はっとしたように魔法を唱え始めるが間に合わない。
「ふふ…おろかな」
七君主の宿った少女の瞳が、残酷なほど無邪気な喜びに染まりぬいた。
ロイドの怒り、絶望を感じ取り、そこに愉悦を見出したように。
「そんなにこの人間が大事なら、一緒に逝きなさい」
ヴン、と魔力が練り上げられる。
それは、ティナやカイオスらの属性継承者や、天使の力を宿した混血児達ですら追随できないほど、急速に練り上げられ、ふわりと解き放たれた。
黒い死の魔力。
やんわりと獲物を捕らえ、飲み込んで、そして虚空へ消えていく――
永遠に冷めない、『死』という名の、悪夢の中へ――
(ヤバイ!)
ティナの背筋を、つと冷たいものが降りる。
ロイドの目には何も見えていない。
そのまま突っ込んでいくと、まともに黒い波動に取り込まれてしまう。
だが、必死に駆ける彼の目には、自らを飲み込もうとする死の予感さえ、映っていないようだった。
「ロイド!」
釣られたように、ティナも駆け出していた。
クルスやレイザ、カイオスも、はっとしたように彼女を見たのが分かった。
「ちょっと、あんたまで飛び込んでいって、どうするのよ!」
「どうもできないけど!!」
けれど、そのまま見ているだけなんて、できない。
逃げたい衝動を、必死に押し殺して、震えそうな足を励まして進む。
「バカ。状況をよく考えろ」
不意に、腕をとられ、彼女はつんのめりそうになりながら、かろうじて踏みとどまった。
いつの間にか近くに来ていたカイオスが、冷静な――しかし、どこか焦りをにじませているようにも聞こえる――押し殺した声で低く告げる。
ティナは、真っ向から見つめ返した。
「けど!」
もとより、問答をしている時間などはない。
足を止めた彼女の耳に、再び血を吐くような声がこだました。
「フェイ…!! おい、フェイ!!」
その思いをかき消すように、黒い魔力が吹き付けてくる。
思わず視界を覆ったとき、ふわりとした風が、一筋、彼女の頬を撫ぜて駆け抜けていった。
■
『死に呪われた子』。
そう、言われた。
左大臣バティーダ・ホーウェルンは、彼の魔力の高さを――そしてその危険さを指し示して、淡々と説いた。
『あなたは、危険すぎる存在なのです。感情に任せ、全てを解き放ったとき、強すぎる力は、その周囲に死をもたらす』
あの時は、意味が分からなかった。
ただ、自分の存在は、きっと周囲を不幸にするのだろう、とそう漠然と考えていた。
石板が砕け散ったときも。
そこからさき、様々な人が彼を害し、様々な人が、彼を傷つけたときも。
自分は『死に呪われた』存在だから。
自分にも、周囲にも、不幸をもたらしてしまうのだと。
だから、これは仕方がないことなのだ、と全てにあきらめをつけていた。
――その目、きれーだな。
だから。
混血児の藍色の瞳を見て、そういった人間に会った時は。
心から、思った。
二度と会えないと思っていた妹に会ったときには。
『死に呪われた』運命が、降りかかりませんように。
心から、願った。
彼らは、どうか。
どうか、その呪いから。
『死に呪われた子』。
フェイ、と。
懐かしい声が、自らの名を呼んだ気がして、彼はふと目を開けた。
霞んだ視界が、白くにごっている。
その中に、必死にこちらに駆け寄ってくる―― 一人の男。
ロイド。
微かに開いた唇から、漏れ出したのは、掠れた空気の摩擦音だけ。
定まらない視界の中で、こちらに駆け寄る人影は、果たして現か、幻か。
フェイ、と男が叫んでいる。
彼の周囲を、黒い魔力が取り囲んでいる。
危ないよ、と言いたいのに、唇は意のままにならなかった。
ただ、漠然と確信した。
『死』。
あの人を、死が飲み込もうとしている。
永遠に抜け出せない闇。
逃げればいいのに、彼は自らその中に突っ込んでいるようにさえ見える。
――だめだ。
唐突に、そう感じた。
だめだ。彼を害するのは。
許さない。
『死に呪われた子』。
けれど、死が彼を犯すのは、絶対に許さない。
――許さない。
理性が眠るように陰をひそめ、形容しがたい感情が全ての思考を支配した。それを半ば夢の中の出来事ように感じながら、彼はうっすらと目を開けた。
精神の奥底で、普段は押し込めた『何か』を――おそらく言葉にすれば、激情とでも言い表す何かを、無意識に解き放った。
――許さない。
絶対に、許さない。
周囲に風が沸き起こり、属性継承者の意思を体現する。
――消えろ。
願う、よりは命じるように、彼は視線に意を込めた。
風は、伏して奉り、意のままに彼をふわりと取り囲む。
感情のままに。
自由に。
七君主の黒い波動は、浄化の風で打ち消され、ふわりと虚空に溶けていった。
白い白い銀世界の只中で、彼の傍らで、聞きなれた声が呆然と、自分の名を呼ぶのを聞いた。
「フェイ」
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