風が自らの意思を持って、その身体を解き放つために働きかけたかのようだった。
ロイドが黒い闇に飲み込まれようとする瞬間、浄化の魔法を解き放って、そのまま雪原に降り立った影は、赤い雫を雪原にぽたりぽたりと落としながら、真っ向から七君主へと向き合っていた。
「…ロイド、大丈夫?」
「あ、ああ…」
ぎこちなく頷く船長に、静かに頷き返して、彼は七君主へと向き直った。
「お、お前が…大丈夫か…?」
「………」
その言葉に、フェイは応えなかった。
いつもは圧倒的な存在感で、本性を閉じ込める彼の理性は、どこかになりをひそめていた。
立ち尽くすロイドには目を遣らず、彼の姿を視界から消すかのように、一歩、踏み出した。
感情が囁くままに、視線に殺意をこめた。
見えない手に押されたように、七君主が、半歩引き下がる。
かわいらしい顔が、悔しそうに歪む。
「まだ…動けたんですね。忌々しい」
「………」
言うに事欠いてそれか。
腹立たしいというよりも、憐れだった。
すぐに――死に絶えた都で、あるいは自らを閉じ込めた異空間で、さっさと息の根を止めていれば、そのような顔をせずに済んだものを。
「く…」
ぎりりと歯を噛みしめた少女が、黒い波動を放つ。
背後で息を呑む全て気配を感じながら、彼は風を呼んだ。
凍った大地を抉り、甲高い悲鳴のような摩擦音を上げて、飛来する黒く逞しい剣。
だが、混血児を犯す遥か手前で失速し、ふわりと空へと消えた。
「そよ風だな」
頬へまとわるように触れた微風だけが、その余韻を物語る。
「…な」
「死に絶えた都のような、閉鎖空間ならともかく――『ここ』なら風はいくらでも呼べる」
意のままに。
自由に。
「…だからって、どうするおつもりですか? 私は、あなたの『妹』ですよ? 大事な大事な妹ごと、私を斬るおつもりですか?」
「………」
挑発的な七君主の言葉を、彼はいっそ気持ちのいいほどに受け流した。
彼らに『死』の手は伸ばさせない。
何より、七君主ごときに、彼女が損なえるはずがない。
「………」
ふと、血に塗れたその眼光が、やんわりと細まり、柔らかい光を宿した。
まるで微笑んでいるかのように。
戦場の只中で、彼はまるで幼い少年のような表情を湛えた。
「な、何を…」
「いつまで、そんなところにいるつもり?」
深々とした静寂の中を、幼い日の王子の声が、澄んだ音色で響き渡った。
緑溢れる、シルヴェアの中庭で。
幼い妹の手を引いて、一緒に歩いているときのような。
「アリエル」
■
おにいさまが、私の名前を呼ぶ。
『アベル』。
罪深き、私の名前。
あなたを殺した、私の名前。
『アベル』。
お兄さまは、笑っている。
笑いながら、私を責める。
あなたを殺した、私を責める。
『アベル』。
お兄さまから目を背けるように、視界を首ごと真逆に向けた彼女は、そこに『見慣れた』姿を見つけた。
銀の髪、藍色の瞳。
忌々しい混血児。
『副船長』という存在だった、アベルをだましていた、穢らわしい存在。
しかし、彼女を映しこむその目は、悲しくなるほど優しい。
藍の目に映るアベルの表情は、硬くこわばり、その存在を根こそぎ否定しているというのに。
どうして、そんな目をするの?
『アベル』。
吸い込まれそうな瞳。
藍色の――綺麗な色。
いつも助けてくれた。
感謝していた。
だから、哀しかった。
混血児という存在であったことが。
「いつまで、そんなところにいるつもり?」
あなたには、関係ないです。
どうか、私なんて放っておいて。
そう、理性が叫ぶその片隅で。
感覚が――直感が囁いている。
私は、あの人を知っている――あの目を、あの優しい雰囲気を、知っている――。
「アリエル」
その言葉が、耳に届いたとき、ずん、と突き抜けるような衝撃が、胸の奥底を貫いた。
足を支える大地が、突然ゆらゆらと頼りなく崩れ落ちたような感覚を覚えて、必死にその場に踏みとどまった。
どうして――どうして、あなたがその名前を知っているんですか?
私が捨てた、私の名前。
罪深い、私の名前。
『そうだよ、アベル。僕は『ここ』にいる。あんな汚らわしい混血児に惑わされないで』
首筋を、柔らかい羽でなぜられたようだった。
それは、心地よさではなく、身の毛もよだつような不安と不快感をアベルに与えた。
無垢な少女にとり憑こうとする悪霊が、それと気取られないために、猫なで声で囁くように。
思わず、振り返る。
幼い日のお兄さまが、にこにこと微笑んでいる。
アベル、と。
その名を呼んで私を責める。
『だめだよ。ちゃんと、自分の罪を償わないと。『ここ』で。永遠に。さ、あんな幻、追い出してしまえばいい』
惑わされないで。
かたかたと、自分の身体が震えているのが分かった。
混血児が、自分の本当の名前を呼んでいる。
幼いお兄さまが、私の罪を責めている。
「アリエル」
優しい――とても懐かしい、響き。
『惑わされないで。あんな汚らわしいものが、アベルの兄であるはずがない』
けれど、彼は知っている。
私が捨てた名前を。
優しい声で呼んでくれる。
(おにいさま…)
ぽろり、と頬を涙が伝った。
混血児が、本当に私の名前を知っているのならば、答えはたった一つだけ。
彼は、いつでも私を助けてくれた。
混血児と顔を背けた私を、いつも助けてくれた。
私は、あの目を知っている。
私は、あの優しさを――確かに、知っている。
「おにいさま…」
噛みしめるように、呟いた。
生きていた。
あなたは、生きてくれていたんですね。
■
「出て行って…」
震える声で、幼い兄に――その悪夢のような幻に、アベルは叩きつけた。
にこにこと微笑む悪魔を、必死に睨みつけた。
「出て行ってください!! ここから、出て行って! 私を出して!」
「ふふふ…」
少年の顔が、醜く歪んだ――まるで、鼻の中心に顔が吸い込まれていくように――
「ふふふ…小ざかしい…小娘の分際で…」
「!?」
気持ち悪い。
思わず身体が後ろへ引き下がる。
ぞわりとした寒気が、肩の辺りから胸の中心に降りていった。
それでも、アベルは背中を向けなかった。
逃げるわけにはいかない。
「と、通してください! お兄さまが、私を呼んでるんです!!」
「ふふ…じゃあ、私を倒して、『ここ』から出て行けばいいでしょう?」
「っ!!」
歪んだ顔のモノに嘲笑われて、アベルはひっと息を飲み込んだ。
だが、だめだ。
もう、目を背けてはいけない。
もう、大切な人を、亡くしてはいけない。
絶対に。
「私は…もう、逃げない! もう絶対に!! お兄さまをなくさない!!」
「…愚かな」
「っ!!」
「私と契約したでしょう? 大事な大事なおにいさまを助けたかったら、その身体を貸してちょうだい、と。約束破りはよくないわ」
胸のところで、爪が食い込むほどに強く握り締めた拳が、かたかたと震えていた。
(ふざけないで…)
おにいさまを騙って、私を惑わせようとしたくせに。
強い怒りを覚えたそこに、アベルは微かな違和感を感じた。
何か――先ほどすっと冷めたような感覚を覚えた――胸の中心に、わだかまるものを感じる。
熱く強いもの。
温かく、優しく、それでいて、飲み込まれそうなほど激しいもの。
(なん…なんだろう)
アベルは、ふと自問した。
身体の中が、熱い。
身体の真ん中の奥まったところに、小さな小さな卵が入っていて、それがやんわりと熱を放っているような。
(何…これ…?)
自分のその変化に気付いたとき、アベルは同時に、自分の前に立ちはだかっていた歪んだモノが、じりじりと後ずさりしているのを見止めた。
まるで、鷹に射すくめられた、蛇のように。
地を這いずり回って、許しを乞うているような。
「出て行って…」
震える声を絞り出しながら、アベルは一歩踏み出した。
踏み出しただけ、相手が下がる。
さらにもう一歩。
今度はそれと自分の距離がつまる。
「出て行ってください」
ぱりん、と身体の中で何かがはじけたような――孵化したような音がした。
小さな卵に入っていたものが、遍く体中に溶け出していく――
指の先から、髪の毛へ、そして震える足にも伝わっていく。
それは、大きな力となって、さらに彼女の身体を前へ押し出した。
「出ていけ…!」
歪んだものは、もう恐怖の対象ではなかった。
アベルは、凛と顔を上げると、つ、と指を突きつけた。
それは、懇願ではなく、絶対的な命令だった。
「出て行け!!」
ぱりん、ともう一度、身体の中で何かがはじけ飛んだ。
それは、今度は彼女の身体を突き破って、まばゆい光となってあふれ出し、隅々まで空間を照らしつくした。
「ぎゃ…」
つぶれたような悲鳴を上げて、歪んだものは飲み込まれていく。
一面の光。
その先に、きっとおにいさまがいる。
もう一息で――ここから、出られる。
「私を、ここから出せ!!」
その声に呼応したように。
突然、視界がさっと開けた。
白い銀世界。
真っ白で冷たくて。
寒さで体中が痛い。
そして、その最中に、血まみれの混血児が、かろうじて立っていた。
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