Lost Words
    神は始め、天地を創造された。「光あれ。」――こうして、光があった。
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  第五章 ほんとうの『名前』  
* * *
 風が自らの意思を持って、その身体を解き放つために働きかけたかのようだった。
 ロイドが黒い闇に飲み込まれようとする瞬間、浄化の魔法を解き放って、そのまま雪原に降り立った影は、赤い雫を雪原にぽたりぽたりと落としながら、真っ向から七君主へと向き合っていた。
「…ロイド、大丈夫?」
「あ、ああ…」
 ぎこちなく頷く船長に、静かに頷き返して、彼は七君主へと向き直った。
「お、お前が…大丈夫か…?」
「………」
 その言葉に、フェイは応えなかった。
 いつもは圧倒的な存在感で、本性を閉じ込める彼の理性は、どこかになりをひそめていた。
 立ち尽くすロイドには目を遣らず、彼の姿を視界から消すかのように、一歩、踏み出した。
 感情が囁くままに、視線に殺意をこめた。
 見えない手に押されたように、七君主が、半歩引き下がる。
 かわいらしい顔が、悔しそうに歪む。
「まだ…動けたんですね。忌々しい」
「………」
 言うに事欠いてそれか。
 腹立たしいというよりも、憐れだった。
 すぐに――死に絶えた都で、あるいは自らを閉じ込めた異空間で、さっさと息の根を止めていれば、そのような顔をせずに済んだものを。
「く…」
 ぎりりと歯を噛みしめた少女が、黒い波動を放つ。
 背後で息を呑む全て気配を感じながら、彼は風を呼んだ。
 凍った大地を抉り、甲高い悲鳴のような摩擦音を上げて、飛来する黒く逞しい剣。
 だが、混血児を犯す遥か手前で失速し、ふわりと空へと消えた。
「そよ風だな」
 頬へまとわるように触れた微風だけが、その余韻を物語る。
「…な」
「死に絶えた都のような、閉鎖空間ならともかく――『ここ』なら風はいくらでも呼べる」
 意のままに。
 自由に。
「…だからって、どうするおつもりですか? 私は、あなたの『妹』ですよ? 大事な大事な妹ごと、私を斬るおつもりですか?」
「………」
 挑発的な七君主の言葉を、彼はいっそ気持ちのいいほどに受け流した。
 彼らに『死』の手は伸ばさせない。
 何より、七君主ごときに、彼女が損なえるはずがない。
「………」
 ふと、血に塗れたその眼光が、やんわりと細まり、柔らかい光を宿した。
 まるで微笑んでいるかのように。
 戦場の只中で、彼はまるで幼い少年のような表情を湛えた。
「な、何を…」
「いつまで、そんなところにいるつもり?」
 深々とした静寂の中を、幼い日の王子の声が、澄んだ音色で響き渡った。
 緑溢れる、シルヴェアの中庭で。
 幼い妹の手を引いて、一緒に歩いているときのような。
「アリエル」


 おにいさまが、私の名前を呼ぶ。

『アベル』。

 罪深き、私の名前。
 あなたを殺した、私の名前。

『アベル』。

 お兄さまは、笑っている。
 笑いながら、私を責める。
 あなたを殺した、私を責める。

『アベル』。

 お兄さまから目を背けるように、視界を首ごと真逆に向けた彼女は、そこに『見慣れた』姿を見つけた。
 銀の髪、藍色の瞳。
 忌々しい混血児。
 『副船長』という存在だった、アベルをだましていた、穢らわしい存在。
 しかし、彼女を映しこむその目は、悲しくなるほど優しい。
 藍の目に映るアベルの表情は、硬くこわばり、その存在を根こそぎ否定しているというのに。
 どうして、そんな目をするの?

『アベル』。

 吸い込まれそうな瞳。
 藍色の――綺麗な色。
 いつも助けてくれた。
 感謝していた。
 だから、哀しかった。
 混血児という存在であったことが。

「いつまで、そんなところにいるつもり?」

 あなたには、関係ないです。
 どうか、私なんて放っておいて。
 そう、理性が叫ぶその片隅で。
 感覚が――直感が囁いている。
 私は、あの人を知っている――あの目を、あの優しい雰囲気を、知っている――。

「アリエル」

 その言葉が、耳に届いたとき、ずん、と突き抜けるような衝撃が、胸の奥底を貫いた。
 足を支える大地が、突然ゆらゆらと頼りなく崩れ落ちたような感覚を覚えて、必死にその場に踏みとどまった。
 どうして――どうして、あなたがその名前を知っているんですか?
 私が捨てた、私の名前。
 罪深い、私の名前。

『そうだよ、アベル。僕は『ここ』にいる。あんな汚らわしい混血児に惑わされないで』

 首筋を、柔らかい羽でなぜられたようだった。
 それは、心地よさではなく、身の毛もよだつような不安と不快感をアベルに与えた。
 無垢な少女にとり憑こうとする悪霊が、それと気取られないために、猫なで声で囁くように。
 思わず、振り返る。
 幼い日のお兄さまが、にこにこと微笑んでいる。
 アベル、と。
 その名を呼んで私を責める。

『だめだよ。ちゃんと、自分の罪を償わないと。『ここ』で。永遠に。さ、あんな幻、追い出してしまえばいい』

 惑わされないで。
 かたかたと、自分の身体が震えているのが分かった。
 混血児が、自分の本当の名前を呼んでいる。
 幼いお兄さまが、私の罪を責めている。

「アリエル」

 優しい――とても懐かしい、響き。

『惑わされないで。あんな汚らわしいものが、アベルの兄であるはずがない』

 けれど、彼は知っている。
 私が捨てた名前を。
 優しい声で呼んでくれる。

(おにいさま…)

 ぽろり、と頬を涙が伝った。
 混血児が、本当に私の名前を知っているのならば、答えはたった一つだけ。
 彼は、いつでも私を助けてくれた。
 混血児と顔を背けた私を、いつも助けてくれた。
 私は、あの目を知っている。
 私は、あの優しさを――確かに、知っている。

「おにいさま…」

 噛みしめるように、呟いた。
 生きていた。
 あなたは、生きてくれていたんですね。


「出て行って…」
 震える声で、幼い兄に――その悪夢のような幻に、アベルは叩きつけた。
 にこにこと微笑む悪魔を、必死に睨みつけた。
「出て行ってください!! ここから、出て行って! 私を出して!」
「ふふふ…」
 少年の顔が、醜く歪んだ――まるで、鼻の中心に顔が吸い込まれていくように――
「ふふふ…小ざかしい…小娘の分際で…」
「!?」
 気持ち悪い。
 思わず身体が後ろへ引き下がる。
 ぞわりとした寒気が、肩の辺りから胸の中心に降りていった。
 それでも、アベルは背中を向けなかった。
 逃げるわけにはいかない。
「と、通してください! お兄さまが、私を呼んでるんです!!」
「ふふ…じゃあ、私を倒して、『ここ』から出て行けばいいでしょう?」
「っ!!」
 歪んだ顔のモノに嘲笑われて、アベルはひっと息を飲み込んだ。
 だが、だめだ。
 もう、目を背けてはいけない。
 もう、大切な人を、亡くしてはいけない。
 絶対に。
「私は…もう、逃げない! もう絶対に!! お兄さまをなくさない!!」
「…愚かな」
「っ!!」
「私と契約したでしょう? 大事な大事なおにいさまを助けたかったら、その身体を貸してちょうだい、と。約束破りはよくないわ」
 胸のところで、爪が食い込むほどに強く握り締めた拳が、かたかたと震えていた。
(ふざけないで…)
 おにいさまを騙って、私を惑わせようとしたくせに。
 強い怒りを覚えたそこに、アベルは微かな違和感を感じた。
 何か――先ほどすっと冷めたような感覚を覚えた――胸の中心に、わだかまるものを感じる。
 熱く強いもの。
 温かく、優しく、それでいて、飲み込まれそうなほど激しいもの。
(なん…なんだろう)
 アベルは、ふと自問した。
 身体の中が、熱い。
 身体の真ん中の奥まったところに、小さな小さな卵が入っていて、それがやんわりと熱を放っているような。
(何…これ…?)
 自分のその変化に気付いたとき、アベルは同時に、自分の前に立ちはだかっていた歪んだモノが、じりじりと後ずさりしているのを見止めた。
 まるで、鷹に射すくめられた、蛇のように。
 地を這いずり回って、許しを乞うているような。
「出て行って…」
 震える声を絞り出しながら、アベルは一歩踏み出した。
 踏み出しただけ、相手が下がる。
 さらにもう一歩。
 今度はそれと自分の距離がつまる。
「出て行ってください」
 ぱりん、と身体の中で何かがはじけたような――孵化したような音がした。
 小さな卵に入っていたものが、遍く体中に溶け出していく――
 指の先から、髪の毛へ、そして震える足にも伝わっていく。
 それは、大きな力となって、さらに彼女の身体を前へ押し出した。
「出ていけ…!」
 歪んだものは、もう恐怖の対象ではなかった。
 アベルは、凛と顔を上げると、つ、と指を突きつけた。
 それは、懇願ではなく、絶対的な命令だった。
「出て行け!!」
 ぱりん、ともう一度、身体の中で何かがはじけ飛んだ。
 それは、今度は彼女の身体を突き破って、まばゆい光となってあふれ出し、隅々まで空間を照らしつくした。
「ぎゃ…」
 つぶれたような悲鳴を上げて、歪んだものは飲み込まれていく。
 一面の光。
 その先に、きっとおにいさまがいる。
 もう一息で――ここから、出られる。
「私を、ここから出せ!!」
 その声に呼応したように。
 突然、視界がさっと開けた。
 白い銀世界。
 真っ白で冷たくて。
 寒さで体中が痛い。
 そして、その最中に、血まみれの混血児が、かろうじて立っていた。

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