Lost Words
    神は始め、天地を創造された。「光あれ。」――こうして、光があった。
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  第五章 ほんとうの『名前』  
* * *
「光…」
 ティナは、呆然とした自分の声が、そう零すのを聞いていた。
 光。
 あふれ出た聖なる白。
 副船長が少女の名前を呼んだ瞬間、少女の皮をかぶった魔の大君主の姿が歪み――そして、光の中で分離した。
 夢か、幻の中の光景を見ているようだった。
 信じられない――カイオス・レリュードならともかく、アベルが、七君主を自力でその身体から追い出すなんて。
「おにいさま…」
 細い声で、混血児をそう呼んだ少女は、そのままことりと意識を失った。
 慌ててロイドが駆け寄って小さな身体を抱きとめる。
「だ、大丈夫か〜?」
 おそるおそる、ティナも――クルスやレイザも――そちらの方へ駆け寄ろうとした。
 眩い光に、何事か、とアルフェリアとエカチェリーナが、禁を破って飛び出して来たのが、視界の端に見えた。
 ティナが、認識できたのは、そこまでだった。
 轟、と吹き付けた波動が、周囲の空気を闇へと変えた。
「忌々しい…。人間の分際で。この私を、身体から追い出してくれるなんて」
 長い髪が、肢体に纏わりついて艶かしく光を弾く。
 赤い目。
 真紅の瞳。
 つ、と空へ浮かび上がった七君主は、意識を失ったアベルを、蟲を見下ろすような目で睥睨した。
「本当なら、この地に『存在』すらできないところだけど――マモンが宿った石板のおかげで、かろうじて存在を繋ぎとめておける――」
 石の欠片を取り出して呟いた魔族は、魅惑的とさえ見える角度に、赫い唇を吊り上げた。
 透明な空気さえ、闇の黒に染まってしまったかのような――。
 そんな感覚さえ感じて、ティナは思わず胸元を押さえた。
(力が…上がってる?) 
 アベルに宿っていたときの力と、その肉体から解き放たれた現在と。
 そして、そこに何か、――ティナの身体の奥底から、湧き出す微かな声を感じた。
 呼吸が――とても、苦しい。
 まるで、自分の身体でなくなってしまったかのように――空気が肺を上滑りする。
「…っ」
「おい、ティナ…」
 傍らで、カイオスの声がしたが、ティナには答えることができなかった。
 少なくとも――彼らは、この闇の中でも、普通に動けるようだ。
(何で…私だけ?)
 満足に息ができないせいで、視界が歪み、汗が滲んだ。
 雪の白が霞み、歪んで、視界が暗くなっていく。
 その時。
「空高き天の楽園に――」
 一筋の風が、傍らを吹き抜けていったのを感じた。
 何とか、視線を上げる。
 強いめまいがして、身体がぐらつきそうになったが、地面に倒れこむことはなかった。
 隣りで支えてくれている手がある。
(カイオス…)
 ティナの傍らに膝をついた彼は、しかし視線をティナの方ではなく、遥か前方に向けている。
 クルスも、レイザも。
 アルフェリアもエカチェリーナも。
 気を失ったアベルを抱えたロイドも、そして混血児たちも。
 一様にこちらに背を向けて、ことの成り行きに見入っているようだった。
 自らの血に染まった、赤い羽根の天使。
 その魔力の波動は、闇を中和し、浄化し、全てを白へ――無に帰す。
 天使の力を宿した、その力は強大。
 猛る風が、術者の呼びかけに応じて、縦横無尽に謳歌の歓びを上げる。
(風の…属性継承者…)
 四属性魔法の『火』は、空間ごと、相手を焼き尽くす。
 四属性魔法の『水』は、空間ごと、相手を斬る。
 そして、四属性魔法『風』は――
「無様だな、七君主」
 普段の副船長からは、まるで想像できない、正に君臨者の声が、冴え冴えと響き渡った。
 泰然とした後姿は、その傷の深ささえ感じさせず、微動だにせず、相手をひたと見据えている。
 声の調子から、眼光さえも伺えるようだった。
 眼球の奥底から、相手に向けて放たれる『力』。
 解放された意思の光は、決して獲物を逃すことをしない。
(すごく――怒ってる…)
 怒り、という言葉が、果たして適切だったのか。
 激情、激昂――どの言葉でも足りない。
 ただ、解き放った感情のままに、際限なく剣を振り回しているかのように。
(属性継承者の…感情解放…?)
 危険だ。
 鞘から解き放たれた刃。
 ――理性なくして思いのままに力を解放することは、周囲の人間に害を――『死』をもたらして、しまいかねない。
 それが、混血児の魔力ならば、なお一層。
「たかだか、人間の小娘にその身体を追い出され――人間ごときの目にその姿をさらす」
「だから、何なの? 私は魔の大君主、七君主。闇の――人々の憎しみの象徴。我が憎しみの象徴として疎まれるからこそ、この世界は均衡を保てるというのに」
 ことことと、華がほころぶように、雅な笑みがこぼれた。
 相対する声は、冷ややかに斬って捨てる。
「あなたの存在意義など、どうでもいい。あなたは、王国を――我が妹を穢した」
「………」
「思い知れ――その存在の、全てをかけて」
 びゅわり、と。
 ティナの肌に感じる空気が、その組成を変えた――ようにさえ、思えた。
 風が――魔力が、悲鳴を上げながら、赫い羽根の天使へと、練り集められていく。
 身体が浮き上がりそうな、竜巻にも似た暴力的な風。
 そういえば、副船長は旅の道中でも、『攻撃魔法』を使ったことがなかったな、とこんなときに彼女は思い至った。
 攻撃魔法は、相手を害する意思がなければ、発現しない。
 今までの道中、回復か補助の魔法しか使ったことのなかった男が。
 ――今、感情のままにその力を解き放つ。
(風の属性魔法…)
 ティナの火とは違う。
 カイオスの水とも違う。
 副船長が後ろ盾にするのは、強大な精神体である『天使』であり、本気の混血児の力は、最悪、精神体である魔族や天使に匹敵する。
 四属性魔法の『火』は、空間ごと、相手を焼き尽くす。
 四属性魔法の『水』は、空間ごと、相手を斬る。
 そして、四属性魔法『風』は、空間ごと、相手を『消す』。
 その存在ごと――魂ごと、綺麗に無に帰し、更地に戻す。
「私を消すの? いいわ、やってみなさい。私は七君主ベリアルの『半身』。私を消したところで、シルヴェアの第二王女に取り付いた『私』は滅びはしない。だが、魔の一角を害したお前の存在は、時の女神の罰を受ける」
「構わない」
 その言葉が、引き金になったかのようだった。
(!?)
 ティナは、思わず呻いた。
 視界が、再び地面に落ちる。
 雪の白を映しこみながら、耳だけが音を拾う。
「お前を『消して』、女神に消されるなら――本望だ」
 まるで、自分のことを言っているとは思えない――淡々とした無感情な声。
 それを最後に、言葉さえ、ティナの耳には届かなくなる。
「ぅ、ぁ…」
 胸の内側から、がんがんと誰かが扉を叩いているかのようだった。

――あんたら、『属性継承者』は、空間に干渉するんだろう。

 緑の館で、けだるげに講釈するエカチェリーナの声が、脳裏の遠くで微かにこだましている。

――魔族にとっての『死』は、完全なる『消滅』――。
 この地上からも、どこからも、痕跡というものを、根こそぎ消し去ってしまう荒業さ。

 火は、空間ごと相手を焼く。
 水は、空間ごと相手を斬る。
 風は、空間ごと相手を消す。

 他の種族の理を、害すことは許されないし、普通の『人間』であれば、そんなこと、できるはずがない。
 けれど、属性継承者ならば――空間に干渉することができる『属性継承者』である『混血児』であれば――。

――そのときは、理を乱した罰として――『時の女神』の鉄槌が下る。

「!!」
 気だるげな女の声に重なるように、ティナの声なくのけぞった。
 出せ、出せと。
 彼女の意思とは関係なく、湧き上がる命令が、やがて微かに彼女の口を動かす。
「ぃ…い、命の灯よりも、…なお赫く 逸る血よりもなお熱く」
 違う。
 不死鳥を呼びたいんじゃない。
 ティナには、時の女神は呼び出せない。
 だって、彼女は、死に絶えた都で、ティナの召喚に応じなかった。
 『夢』を変えた時から――ティナの呼びかけに、応えなくなった――。
 だが、今。
 脂汗がにじみ、吐きそうになりながら、喉が勝手に音を搾り出す。
「古の長 分かたれし果て 汝の新たる名において」
 だめだ、だめだ、だめだ。
 ――召喚しないで。
 祈るような葛藤と裏腹に、無情に言葉は紡がれていく。
「廻り舞い散る魂の 欠片 哭(な)きたる礎の」
 その時、ようやく隣りの男がティナの変事に気が付いた。
「…ティナ?」
「とき、掲げたる…流転の、女神…!!」
 涙が、頬を伝う。
 死に絶えた都では、無意識の内に不死鳥を呼び出していた。
 そして今、何の因果も分からないままに、自分の意思と関係なく、不死鳥を呼び出そうとしている。
 精霊が、術者の意思を捻じ曲げて、力ずくでこの空間に舞い出でようと、暴れている。
 それを――術者は、抑え切れない――
「我ここに… 汝を願うっ…。 我ここに 汝を望むっっ」
 ぽたぽたと、雪原に吸い込まれていくのは、涙か、汗か。
 口を覆っても、喉を押さえても、餌付きながらでも、それでも声は止まらない。
「尽きぬ命の杯に…生と、死と死を、…ぐっ…つかさど、る…っっ」
 召喚されてしまう――
 ティナの意思とは関係なく。
 それは、圧倒的な力で彼女の意思をねじ伏せ、最後の文言を高らかと謳い上げた。
「四属の謳の在るところ、今まさに…」

――表されん!!



 その時、色々なことが。
 同時に、起こっていた。

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