『時の女神』に始めて会った日のことを、彼はよく覚えていた。
雪の降りしきる、寒い寒い日のことだった。
ひらひらと舞い散る白い光の向こうで、不思議に青い空が、湖のように綺麗だった。
淡い澄んだ水面が、侵食されている。
黒く染め上げられた――まるで、――絵本でしか見たことはないけれど――鮫の大群が押し寄せてきて、その影で、青を黒く塗りつぶしてしまったかのように。
舞い降りた黒竜。
煌々と立ち昇る、黒い空気。
それは、石板が砕け散るという前触れの災い。
放たれる強烈な死の匂いは、三歳だった彼の頭でも、うすうすと感じ取れるものだった。
「あ…」
彼は、目を見開いた。
彼を――村を救ったのは――。
闇を切り裂く一筋の光。
黒い鮫の大群の中を、颯爽と切り込む白い魚のような。
眩い輝きに包まれて――雪原に舞い降りた、美しい『女神』。
「ふしちょう…」
■
それは、ほとんど同時に起こっていた。
上空から見下ろせる視点があれば、その全てを視ることが出来たかもしれない。
実際、それは不可能だった。
だが、起こった出来事を順番に、結果だけ並べて見るならば――
微笑んだ七君主が、自ら――とさえ思われるように――混血児の風の魔法に飲み込まれた瞬間――魔力を使い果たし、膝をついた彼のその前に――燦然と光輝く、虹をまとった不死の精霊が、優雅に君臨していた。
■
「不死鳥…」
ぱらぱらと、雪が舞い散っていた。
見上げるように見上げた混血児の目には、憧憬にも似た感情が、微かに宿っていた。
魔力が尽き、そのまま地面に崩れ落ちた血まみれの身体で、なお視線だけが力を失わず、その姿態を映し込んでいた。
「………」
『七君主を――半身とはいえ消滅させた、か』
「ミルガウスに仇なすものを、退けただけのこと」
『そのような理由で、聖と魔のバランスを崩すような真似をしたか』
「………」
フェイは、応えなかった。
そこにあるのは、焦燥でも後悔でもない。
――微かな、笑み。
『光と闇の均衡を崩した者は、我が罰を与えなければならぬ――』
「そうですね」
『…』
不死鳥の輝く瞳が、混血児を睥睨した。
すべて覚悟の上か。
そう、口にあたる箇所が、形づくった。
『ならば、消えるがいい――我が、浄化の炎で…!!』
「…」
フェイの唇は、笑みを浮かべたまま――まるで、女神の鉄槌を、慶んでいるようにすら、見受けられた。
目を閉じて、迫り来る炎を待つ。
その肩に、触れる手がある。
「…ロイド」
「だいじょーぶだよ。妹は、ちゃんとアルフェリアに預けてきた」
「…なんで」
「何でって、お前、オレの仲間だろ?」
「それは――」
理由になってない、と言おうとしたが、その前に女神の炎が放たれるほうが先だった。
それは、眩い光を伴って、舞い散る雪を蒸発させながら――二人を、ゆっくりと飲み込んでいった――その時、だった。
■
「ぁ…っ…う…っっ」
ティナは、胸元を抑えて、地面にうずくまっていた。
脂汗と涙が顔を伝い、ぽたぽたと雪の上に落ちていく。
不死鳥が召喚されてしまった。
――ティナの意思とは、関係なく。
そして、精霊は、術者の魔力を全力で搾り取りながら、副船長を睥睨している。
「ティナ…!? 大丈夫…!」
「ちょっと一体…っ! 左大臣様っ、どうなってるんですか?」
「…」
クルスとレイザが変事に気付いて、駆け寄ってきた。
問い詰められても、カイオスにも応えることができない。
ただ、苦しそうにうずくまるティナに、付き添うだけだ。
その、三人の顔を、熱い風が吹き付けていった。
不死鳥が――攻撃態勢を取ったのだ。
「…!! ぁ…っ!」
ティナが、のけぞった。
不死鳥が力を使ったことで、術者に反動が来ているのか。
瞳孔は大きく見開かれ、がくがくと震える口からは、悲鳴とも呻きともつかない声が、絞り出されている。
とても、精霊を制御できるようは見えない。
「…このままじゃ、王子様が殺されてしまう」
レイザが、静かな声で呟いた。
クルスが、はっとしたように彼女の方を仰ぎ見た。
カイオスも視線だけを動かして、少女を見遣る。
「聞いてくれる? 二人とも。私…アレントゥムを見殺しにしたんです」
「…え!?」
「………」
驚いた声を上げるクルスと裏腹に、カイオスは平静な表情で、その告白を受け止めた。
レイザは哀しい笑顔を作った。
罪を悔いるように。
そして、それを告げる自分を、笑うように。
「私は、アレントゥムが焼かれようとしているとき、七君主の傍にいました。だけど、何もしなかった。できなかったんじゃない。ただ、そこに居て、誰かが――何とかしてくれるのを、待ってたんです。街を滅ぼす瞬間を…ただ見ていた」
アレントゥムは、目の前で滅びてしまった――
「だから――もしも、王子様を救ったら――少しは、罪が償えるかしら」
「――え?」
クルスが、微かに声を上げた。
その意図を察したカイオスが、腕を伸ばそうとする、それよりも、早く。
「あなたを斬ろうとした私のこと――許してくれて…ありがとうございます」
少女は、猫のような真紅の目をにこっと細めて笑った。
身体が、小刻みに震えている。
恐怖を、吹っ切るように。
走り出した。
「っ」
「レイザ!」
カイオスの指先が、服の裾を掠めて終わる。
クルスが追いかけようとしたが、それよりも遥かに早く。
「…!!」
レイザは、フェイと不死鳥の直線上に――自ら身を躍らせた。
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