白い風の中を、ただ歩いていた。
それは、いつかの堕天使の聖堂で、濃い霧に巻かれてひたすら彷徨っていたときの感覚に似ていた。
だが、顔に、手足に当たる氷の粒が、これが、『現実』の痛みであることを残酷に知らしめている。
何も考えず出てきたために、ほとんど部屋着で、上着も手袋もしていない。
直接肌に触れる指先は、硬く凍りつき、『冷たさ』よりも『痛さ』を――氷をぎゅっと押し付けられて、締め付けられているような感覚を伝えてくる。
冷気を防ぎ切れない服の外側からは、容赦なく風が入り込み、地肌に直接氷が触れているような気さえした。
それでも――もっと、痛む箇所がある。
それ自体が、透明な氷の結晶と化してしまったかのように――どくどくと機械的に鼓動だけを刻み続ける。
冷たい心臓から出た冷たい血は全身を駆け巡って、彼女の全てを雪よりも冷たく凍らせる。
「………」
アベルを探す、と出てきた。
実際に、王女がどこに行ったか、ということに、だがティナ自身関心が向けられる状態ではなかった。
吹雪の中を、当てなく彷徨っていた。
ただ、ひたすらに、ひたすらに…。
(七君主…不死鳥…レイザ…フェイ…)
凍りついた頭の中心で、脈絡のない単語が、くるくると渦巻いている。
それは、強い風に弄ばれる、雪の結晶のように。
白い嵐。
それは、周囲の景色を霞ませ、氷の洞窟に迷う込んでしまった錯覚さえ、与える。
(不死鳥…レイザ…私…過去…)
光景は、視界の中で上滑りし、ただ湧き上がる単語の数々が、吹雪に乗って舞うように、ひたすらに、ただひたすらに――
頭をくるくると回っていた。
空っぽの抜け殻が、ただ、雪の中を彷徨っているようだった。
「………あ」
どのくらい遠くに来たのか――ここが、村の中か、外かすら、分からない。
ただ、突然開けた視界には、幻想的な光景が、――透明な氷に彩られた、美しい情景が広がっていた。
まるで、何かの導きを受けたように、風が止まった。
深々と落ちる雪の欠片たちが――透明な水晶に閉じ込められた、木々の上に、たださやさやと降り積もっていた――
■
「…なんであなたなんですか。クルスさん」
足音に気付いてこちらを見上げた彼女の第一声は、クルスの予想通り、といえば、予想通りのところをついてきた。
吹雪の中でも、飛び出していった王女を探すのは、比較的簡単だった。
こんな寒い中――しかも、視界も効かない吹雪の中を、彼女が遠くに行けるはずも、行くはずもない。
もっと言えば、そのためらいが残っているぎりぎりで冷静な状態だと、クルスには分かっていた。――ティナのように、本当に考えなしにさまよったりはしないだろう、と。
その予想通り、アベルはすぐ隣りの建物の裏口に、こじんまりと肩を抱いて座り込んできた。
「てっきり、カイオスが来るものだと思ってました」
雪を踏みしめて近づいたクルスは、白い息を吐いて笑う。
「カイオスがさ、自分が行っても、多分撥ね付けるだけだろうからって…だから、代わりにオレが来たんだよ〜」
クルスは、しれっと全責任をカイオスに丸投げした。
ふーん、とアベルは小首を傾ける。
吹雪から風が消え、単なる雪となった。
深々と降り積もる白い結晶。
それでも、夜明け前の外気にされさらて、凍りつきそうな冷気を地面に降りしきらせていた。
「風邪引くよ〜」
「…」
クルスが差し出した上着を、アベルは無言で受け取った。
毛皮に包まって、ほう、と吐息を吐く。
吐いた端から凍っていくのを楽しむように、暫くそうして息をついていた。
「寒いですね」
「うん、そうだね」
「凍えそうです」
「うん」
「けど、…身体より、凍えそうなところがあるんです」
「…」
クルスは、ほとんど仕種だけで、うん、と頷いた。
少女に注がれる視線は、とても柔らかい。
体温で溶けてしまう雪の結晶のように。
「隣り、行ってもいい?」
「どうぞ」
「ありがとう、お姫さま」
生意気にも聞こえる言葉を、とても自然に紡ぎ出した少年に、始めてアベルの口元がほころんだ。
そっと隣りに腰を下ろした少年は、アベルより低い位置から、ひょいっと王女を見上げた。
「フェイは、死んだわけじゃ、ないでしょ?」
「………」
死、という言葉を耳にした瞬間、再びアベルの顔がこわばった。
突然の核心に、心の準備も何もできてなかったらしい――少女は俯いて、深く目を閉じた。
「お兄さまを傷つけたのは私です」
「七君主だよ」
「実際に傷つけたのは、私です!!」
「アベルは、助けたんでしょう」
「…っ」
クルスの言葉は穏やかで、悲鳴のように上ずるアベルの声とは対照的だった。
彼女は、幼い子供がいやいやをするように、首を振った。
長い髪がふわりと空気をまとって、後を追うように肩に落ちた。
「違うんです…」
搾り出すように、彼女は呟いた。
「違うんですよ、クルスさん」
クルスは、答えなかった。
彼女が、胸のうちを吐き出すのを、聞いていた。ただ、聞いていた。
「私は…傷つけたんです。お兄さまを…違いますね、副船長さんを、です。ひどい言葉で…拒絶、したんです」
混血児なんて消えろ、と叩き付けた自分の醜さ。
ぽろり、と少女の目から、一粒の涙がこぼれた。
「何も知らないのに、混血児というだけで…。違います、私は、混血児って人たちが、悪い人なのか、いい人なのかも分からないのに、『混血児』というだけで、その人たちを否定してたんです」
ひらひらと、雪が舞い散っている。
ほう、と吐息をついて、それを映し込んで――。
そして、少女は膝を抱えて、顔をうずめた。
「私…最低の、人間ですね。混血児って呼ばれてる人たちよりも、よほど…汚い」
最後の方は、初雪が陽だまりに溶けるように消えた。
きゅっと自分の腕をつかんで、小さく小さく縮こまった。
そのまま、自身も消えてしまえばいい、と願うように。
「アベルは…知らなかったんだよね」
「知らないのは、いいわけにはならないと思います」
「そうだね。けど、普通の人はそうは思わないと思うけどね」
「そうですか?」
「うん。知らなかったから、しょうがないじゃないって」
「………」
アベルは視線を上げた。
そして、クルスの方を見る。
「それは…言い訳ですよ…。逃げてるだけじゃないんですか?」
「うん、けど、逃げちゃう人が多いことは事実だと思う。だから、アベルはすごいなぁ、と思うよ」
「すごくないですよ」
深々とした、凪を乱さないやりとりが、白い世界で、淡々と交わされていく。
それは、次第に明るくなる景色の中で、きらきらと光を弾く雪原に、静かに吸い込まれていった。
|