Lost Words
    神は始め、天地を創造された。「光あれ。」――こうして、光があった。
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  第九章 闇の中の人影  
* * *
 黒い闇の中を、歩いていた。
 彼女はふと空があるほう――上、だと思われる方を見上げる。
(果てなんて、あるのかな)
 そんな居心地の悪い心地がした。
 抜けるような青空でなく、吸い込まれそうな夜空の闇。
 足の下で跳ね返る大地も、しっかりと踏みしめているはずなのに、前後左右の感覚が全くつかめないせいか、ゆらゆらと砂の上を歩いているような、不確かさを感じていた。
(どこ…なんだろ)
 彼女は――ティナは、そんな思いに駆られる。
 『ここ』はどこなのか。
 極寒の国の民家の――ベッドの上に、先ほどまでいたはず、なのに。
(じゃあ…これは、夢、なの?)
 ティナは、あてもなく上の方を見上げる。
 『夢』、だと自分でも分かる夢――こんなもの、いつもの『あれ』に決まっている。
(光景が、変わってる…?)
 未来を示す光景は、シェーレン国の死に絶えた都で、カイオスと剣を交えているところから、一向に進まなかった――それとは明らかに違う景色。
(これって、前進…なのよ、ね?)
 ただ、奇妙なのは、『夢を見ている』というより、ティナ自身がはっきりとした意識を持って、暗闇の中を『歩いている』――といった気がするところ、か。
 当てなく踏み出していた足が、ふと、下に引きずられるような感覚がした。
「――え?」
 突然、床が抜けるような――。
 と同時に、潮の匂いが、ぶわり、と足の下から吹き上げてきた。
「な…!?」
 崖。
 遥か下、おそらく自分の身長ほどの大きさの石が、豆粒のように遠く、その表面を、白い浪がちろちろとなめる様に叩きつけているのが、視界の端にちらりと映った――頭の後ろ側が、すっと血が引いて冷たくなった――やばい、このままでは――
(落ちる…)
 助けて、と見遣った反対側には、何人もの大人たちがいた。
 視界が随分と低く、巨人に見下ろしていられるかのような錯覚を覚える。

――フェイお兄さまが石版離散の犯人じゃないか、と言う人が出てきました。フェイお兄さまが…まさか、そんなはずないんです。だけど、フェイお兄さまを断罪しろと求める勢いは凄くて、お父様…シルヴェア国王ドゥレヴァでさえ、止める事は出来なかった。…フェイお兄さまは追い詰められて…そして、崖から…さっきのあの崖から、落ちてしまったんです。

 闇の石版を探すため、ミルガウスを発つ前に、アベルがそう言った。
 ミルガウスの郊外の崖。
 そこに追い詰められて落ちていった――王位継承者。
(…っ)
 いやだ、と思っても、重力に引き寄せられる体はそこに踏みとどまってはくれない。
 冷や汗が、わきの下を伝った。
 悲鳴が、喉の奥で搾り出される。
 しかし、その微かな走りは、潮風に遊ばれて見る間に吹きちぎられていく――
(いや…だ…)

――落ちる――

 ぐらりと傾いた体が、地面を離れ、そしてまっさかさまに――
 ティナは思わず目をぎゅっと閉じる。
 そこで、彼女の意識が、一瞬途切れた。


「あ…」
 気が付くと、ティナは平地にへたり込んでいた。
 あたりを見回す。
(落ちた…はずじゃ…)
 身体はどこも痛くないし、どこにも違和感がない。
 ただ、落ちた、という『感覚』を、恐怖とともに、味わっただけで――
(ホントに…なんとも、ないわよね)
 手足をさすってみたティナは、ふと、奇妙な感覚に捕らわれた。
 自分の、身体ではない。
 周囲から注がれる――幾多もの、温度のない、視線。
「…ひ」
 そこに在るのは、憎悪。

――混血児。

 その言葉に追い出されるように、ティナは思わずその場を駆け出していた。
 怖い。
 暗がりから、手をつかまれて、そこに引きずり込まれて――待っているのは、果てのない責め苦の嵐。
(殺される!!)
 恐怖が、頭を締め付けていた。
 手足を必死に動かす。
 闇の中。
 たくさんの手が伸びてきて、自分を捕まえて――
(助けて…)
 引きずりこまれる。
 闇の中に。
 永遠の責め苦。果てのない地獄。
「いや…!!」
 闇の触手が手足を捉え、引きずられるように彼女は転倒した。
 混乱しながらも、踏みとどまろうと手足をばたつかせたら、指先に何かが触れた。
(…え?)
「立って」
 冴えた空気に響き渡る、凛、とした声。
 その瞬間、ティナの脳裏に浮かんだのは、ある旋律の記憶だった。

――光の速さで会いに来て。夢の強さで抱きしめて――

 砂漠の国の道中、死に絶えた都へ向かう最中。確か、アベルと副船長と共に休んでいたときだった――まどろんでいたときに耳にした、歌の声によく似ていた。
 凛とした――女の、声。
 ぐい、と体が前につんのめって、ティナは混乱しながらも一歩踏み出した。
 彼女を捕らえる闇は、ほころぶように解け、その眼前の闇が割れて――
「ここからなら、出られる」
 光の方向に、背中を押し出すように手が触れた。
 それは、無骨な戦士のそれではなく、繊細な――まるで女が持つ、しなやかな感覚だった。
「っ…!!」
 それは優しい力だったが、逆戻りできない強さを持っていた。つんのめるように吸い込まれていく流れに逆らって、ティナは必死に身体を後方によじった。
 銀の髪。
 光に照らされて、ティナを助けてくれた人物のそれ以上は、逆光になって分からなかったが、彼女は確信した。
「…フェイ」
 あんた、こんな暗闇で何やってるの。
 三日も意識が戻らなくて――皆心配してるのよ!
「不死鳥憑きの巫女。あなたの力は強すぎる。あなたの夢と私の過去が、同調したようですね」
「さっさと…こっちに…あんたも!!」
「無理です」
「なんで! ロイドもアベルも…みんな、心配して…!!!」
 必死に、手を伸ばすと、ためらうようにそこに指が触れた。
 やった、と思って力を入れた瞬間、ぱんと弾かれたように痛みが走った。
 顔をしかめて――それ以上に、驚きに目を見開いて、ティナは思わず後ずさった。
 混血児の姿は遠ざかり、彼女は光の中へ――おそらく自分の『夢』の中へ――抗いようもなく、引き戻されていく。
「…どうして」
 荒波に呑まれる小船が、必死に海面に浮かび続けようとするように。
 ティナは流れに逆らって、もう一度そちらに手を伸ばした。
 混血児は、すっかり遠く離れてしまっていても――暗闇の端っこに立ち尽くして、彼女の方を見続けているようだった。
「フェイ!!」
 思わず、もう一度その名を呼ぶ。
 皆が、彼が目覚めるのを待っている。皆が――絶望の中で、必死に希望を見つけ出そうとしている。
 あんた、なんでそこから動かないの。
 どうして、こんな暗闇、自分の力でどうにかしようと、思わないの!
「…無理です。禁忌を犯した『風』の力は――その均衡を保つため、強大な『土』に押さえつけられてしまった」
「…え」
 その姿は豆粒のように小さくなっていた。
 声も途切れ途切れにしか届かなかったけれど、ティナは必死に耳を済ませた。
「――神剣」
 その言葉が、空気を伝って、ティナの髪をゆらして、かろうしで耳の端っこに引っかかった――そう、思った時には、彼女は光の中から――ぐんぐん強い力で浮上していた。
 『夢』から現実へ――。
「!!」
 目を開けて、上半身を勢いよく、ばねのようにしならせて飛び起きたティナは、そこが静かな静寂に包まれた混血児の村の民家の一室ということを確認して、ほっと息をつく。
 首筋に、顔に流れる汗を指先で捕らえて、ぎゅっと握り締めた。
 あれは――今の光景は、フェイの『過去』のものか、それとも全てが自分の『夢』か。
 夢と断じるには、あまりに鮮明な記憶――はっきりと、『誰かと会話をした感覚』が残っているなんて、今までの『夢』には決してなかった。
 そして、彼に触れた手が――弾かれたように拒絶されて、――彼が言った言葉『神剣』。
「………」
 どきどきと、高鳴る心臓はしばらく静まる気配さえしなかった。
 興奮が頭を冴え渡らせて、そのまま眠りにつくことはできそうにない。
「フェイ…」
 きゅっと、ティナは唇を噛みしめた。
 夢の中で彼女を助けてくれた『現実』の彼は今、『二度と眼が覚めないかも知れない』という宣告をまるで自ら裏付けるかのように、――あれから三日が経った今も昏々と眠り続けている。
「…」
 淡々とした混血児の青年。
 だが、彼女に触れた手は――あんなに長い間旅をしていたのに、『触れた』と実感したのは、初めてだった気がする――温かくて、優しかった。
「………」
 窓の外は暗く、夜はさらに深まっていきそうだった。
 どうしても――無性に、現実の副船長に会いたい。
 その衝動が、高まってきて抑えられなかった。
 ティナは、何かを振り切るように顔を上げた。気配を殺して、そっと部屋を抜け出した。

* * *
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