平時であれば、こんなことありえない、と思う。
だが、そのときのティナはひどく混乱していた。
『夢』でフェイと会話をしたこと。眠る副船長を見つめるロイドの眼差し。
何か、頭の中に引っかかる何かが、そのまま自室に戻るのを拒んでいた。
何か――何かが『つかめる』筈なのに。何か、『つかまなければいけない』のに。
(…何、を)
ぐるぐると考える頭と裏腹に、足は自然にその部屋を目指していた。
くどいようだが――平時であれば、こんなことありえなかった、絶対。
悪い風邪を引いたときみたいに――微熱に浮かされていて、いつもの判断ができなかった。
後で考えても、どうしても解せない。
よりによって、人が寝静まった夜中――あの男の部屋の扉を叩いたなんて。
「…あの」
微かに廊下を吹き渡る夜風に、掻き消えてしまいそうなほど、か弱い音でノックしたつもりだった。
焦燥に似た焦りの中で、ほんの少し残った『理性』の部分が、必死に囁いていた。彼が扉を開けなかったら、このまま真っ直ぐ部屋に帰って、布団をかぶって、もう一度無理やりにでも『夢』の続きに舞い戻ろう――と。
しかし、しんとした闇が影を落とす夜更けに関わらず、ノックの音に答えて静かに扉が開いた。
不審そうにこちらを見止めた青色の眼光が、意外なものを映し込んだかのように、二三度瞬く。
軽装だったが、眠っていたような素振りはなかった。扉の隙間から覗く肩越しに、机の上に開かれた『魔封書』が、ぼんやりと光を放っているのが、微かに見えた。
「…その」
ティナは、怪訝そうに自分を見下ろす眼差しを、真っ向から見返すことができなかった。
頭の中には、確かに色々な言葉が渦まいて、それが苦しくて扉を叩いたというのに、いざそれが開かれてみると、何をどのように話していいのか分からない。
そう、そもそもどうして彼の部屋の扉を叩いてしまったのか。しかも、叩いたら叩いたで、どうしてこんな時間に顔を出すのだろうか。
状況に混乱して、ますます言葉が遠ざかっていく。
誰もが寝静まっているような真夜中に突然尋ねてきて、挙句しどろもどろに言葉を探している女を見て、青年は軽いため息をついたようだった。気を悪くしたのかと思ってそちらを見ると、ただこちらを静かに見下ろす目とかち合った。
とにかく何か言わなければ
言い訳にもならない言葉の断片が、反射的に唇を滑り出していく。
「…あ、あの…話、があって…その…こんな時間に、ごめんなさい…」
「…別に」
そっけなく応じたカイオスは、一旦部屋に引っ込むと上掛けと小さな袋を持って戻ってくる。立ち尽くしたティナに、押し付けるように上着を渡すと、
「場所、移すぞ」そっけなく言い置いて、先に立って歩き出した。
「…あ」
ティナはその時になって、やっと自分が寝起きのままのおよそ人には見せられないような格好だったことに気付いて、青くなった後に赤くなる。
男物の上着を肩から羽織ると、慌ててその後を追った。
ティナたちが厄介になっている、混血児の村の村長の家は、『村長の』というだけあって、それなりの広さを誇っていた。
彼女たち8人余りが滞在しているというのに、一人に一部屋、そこそこの広さのある部屋が割り当てられている。何人かで団欒できる居間も数部屋あり、カイオスはそのうちの一室――こじんまりとした、暖炉がある部屋に足を踏み入れた。
所在無く立っているティナを横目に、暖炉に魔法を使って素早く火を灯すと、ちょっと待ってろ、と言い置いて、そのまま部屋から消える。
所在無く取り残されて、ティナはふらふらと椅子に崩れるように腰掛けた。
「…」
炎がぱちぱちと爆ぜて、家具の影がいびつに壁に躍りあがった。
それは、暗闇の中で、ティナを追いかけてきた姿無き声――『混血児だ』『殺せ』と――を思い出させて、背筋が寒くなる。腕の辺りが傷む、と思ったら、自分の爪が食い込んでいた。
「落ち着かなきゃ…」
自分に言い聞かせて、苦労して力を抜く。
ことり、と音がして視線を上げると、机の上に湯気を立てるコップが置かれたところだった。
「…あ」
いつの間に戻って来たのか、アクアヴェイル人の容貌をした青年は、ティナの隣りの椅子に腰を下ろすと、自分の分のお茶を口に含んで息をついた。
「あの」
「…?」
視線を上げた青年に、ティナは思い切って尋ねる。
「これ、あんたが淹れたの?」
「他に誰が淹れるんだよ」
「…それはそーなんだけど」
ほどよい熱気に調整された器を手にとって、一口含むと、ふわりと甘い香りが広がった。その割りにしつこさはなく、潮がすっと引いていくように、後味はすっきりとしている。
「…おいしい」
温かい液体が胸の辺りに落ちると、ほっと無駄な力が抜けたような心地がした。
ありがとう、と呟くように告げると、別に、と予想通りのそっけない返事があった。
「これ、ここのお茶じゃないわよね。そもそもこんな寒いところでお茶の葉なんて取れないし」
「…『アクア・ジェラード』」
「…え」
「アクアヴェイルの首都の名で呼ばれる茶葉」
「いつも、持ち歩いてるの?」
「煮詰まったときに、全く別のことをすると、意外と解決策が思いつくことがある」
「…へぇ」
確かに、何かのことで頭が一杯一杯になっていると、前にも後ろにもいけなくて苦しいことがある――まるで、さっきの自分のように――それが、ちょっと気持ちをほぐしてみると、驚くほどあっさり、答えが見つかったりするものだ。
「お茶って高級品でしょ? そんなの持ち歩けるなんて…さすが、ミルガウスの左大臣様」
くすり、と笑うと、意外にも相手は、痛いところをつかれたような――どこか『決まり悪そうな』表情を見せた。
「別に…いいだろ、このくらい」
「うん、全然いいと思うんだけど」
「………」
カイオスは、何か言いたげな視線を向けたが、結局口に出しては別のことを聞いてきた。
「…で、こんな夜中に、何事だ?」
「うん…ごめんね。なんか、動転してて」
「いや…。ちょうど一息入れようと思ってたところだった」
「…うん。ありがと」
「また、妙な『夢』でも見たのか? 確か――最近不調だったんだよな」
「それ…なんだけど」
カイオス・レリュードには、未来を示す『夢』を見ることや、最近それが不調であることもすべて話している。
ティナは、今しがた『視た』夢――高い崖から飛び降りたこと、混血児として追われたこと――そして、『フェイ』らしき人間と『会話』をしたことを覚えている限りで話した。
「………」
話を聞いたカイオスは、暫く何も言わなかった。
その沈黙に不安が増して、思わず言葉が飛び出していた。
「あ、や、やっぱり…突拍子もないわよね、こんな…。未来を夢で視る、とかならともかく、昏睡してる副船長の夢に『同調した』なんて…」
「妾将軍」
「…へ?」
「妾将軍――カレン・クリストファと、精霊イクシオン――『デュオン』の記憶も――お前、視たんだろ」
「…えっと…そう、ね。確かに…」
自分でも忘れていた記憶だったが、カイオスに指摘されて、ティナはやっと思い出した。
妾将軍の宝の海域――そこに眠っていた精霊イクシオンに、アレントゥム自由市で砕け散った闇の石板が融合した。
その精霊の記憶に同調するような夢を――ティナは確かに、あの時見た。
「それと同じ事を、やっちゃった…みたいね」
「………」
ぽりぽりと頬をかきながら、自分の『力』が本当に自由にできたらな、と思う。
「けど…何か腑に落ちないのよね。混血児の――天使の力を持つ『風の属性継承者』が、そう簡単に押さえつけられるのかしら」
「…」
ティナが零した疑念に、カイオスはすぐには答えなかった。
湯気を立てるグラスの中の液体を――揺れる水面から何か読み取ろうと苦心するように――じっと見つめた。
「魔封書は、今のところ、彼が目覚めない原因について、何も示していない」
「そうなの」
こんな夜遅くまで起きていたのは、やはり、彼が『魔封書』――術者の魔力と引き換えに、あらゆる知識を供する書物――を操っていたからか、と思った。
魔封書の応える内容は、問いかける術者の知識の量に比例して深くなる。
カイオス・レリュードほどの人間が『何もつかめない』のだから、きっと誰が書物に問いかけても同じなのだろう。
「あの、副船長は『夢』の中でだけど――『神剣』がどう…とか言ってたわよ。何か、関係あるのかな」
「神剣…か」
「属性継承者の操る『属性』の…力の源泉――」
ティナは、言いながら、考え込むように顎に手を当てる。
――『生命』さえ操るほどの文明を築いた、天界に住まう天使と、地界に住まう悪魔。
それが地上で激突したのが、『第一次天地大戦』だった。
天界の長イオスと、地界の王カオスは、互いを刺し貫いて、『光と闇の陵墓』にて果て――理由をなくした戦争は、ただ続き、地上に悲しみ、怒り、あきらめ――負の感情をもたらした。
現状を憂いた、聖魔の四属性を操る者たちは、自らの命と引き換えに光闇それぞれ四振りの『神剣』を作り出し、天と地と地を分断した。
光闇の石板は、その結界を作る『鍵』の役目を果たし、精神世界で『天と地と地』が交わる地――聖地ミルガウスの鏡の神殿にて、安置されることとなった――。
神剣は、三つの世界を分かつ『結界』であり、属性の『源泉』でもある。
「属性の力の源泉が…なんで、『風の属性継承者』を害そうって話になるのよ」
「………」
「確かにね。副船長の力はすごかった。七君主を本気で『消す』なんて、同じ属性継承者のあんたや…私でも、不可能だったでしょ。だから、不死鳥も反応した…そこまでは分かるけど………」
独り言のように問いかけるティナの声に、いつも応えてくれる声は沈黙を保っていた。
ティナの誰何も消え入るように途絶え、暖炉の焚き火が爆ぜる音だけが、しばらく続く。
「もしも…」
カイオスは口を開いたが、その声は目の前まで立ち込める霧の中を、手探りで歩いているような調子だった。
「考えられるとすれば、ヤツが風の魔法を放って、七君主――魔の一角を崩した――それほど大きな力が働いたために、その属性に反する力が一時的に働いた…」
「属性の反動…?」
「ありきたりな話だが、崖っぷちに立ってる人間の背中を押したら、その反動で踏み止まろうとするだろ」
「うん」
「それと同じ事が起きた…と考えることはできる」
「風の力が働き過ぎたのを戻そうと、土の力が活発になってる…ってこと」
「ああ…属性の力の源泉――『神剣』が、その調和を保とうとして、属性継承者ごと、属性の力を封じ込めようと働きかけた――」
「うん」
ティナは、頷いたものの、だからといってそこに何か建設的なことが言えるわけでもない。
「確かに…筋は通るわね」
「…確実な知識が…ほしいところ、だな」
「え?」
「神剣について。第一次天地大戦において、戦争を終わらせるために、天使と魔族が用いた聖魔剣。だが、それ以上のことは、ほとんど分かっていない」
「うん」
「この地上のどこかに眠ってるとは言われているが…。神剣の封印場所に辿り着くには、『ストラジェスの神具』と呼ばれる封印の鍵が必要らしい」
「…ストラジェス」
カイオスの何気なくこぼした単語に、ティナは不自然なほど引っかかりを覚えた。
『ストラジェス』。
何の変哲もない、単なる名前だ。
だが、その言葉が『単なる名前』以上のものであると、忘れたはずの自分の過去が、叫んでいるような気がする。
「ストラジェスや神剣のこと、魔封書でも分からないのよね」
「…そうだな」
あきらめも滲ませながら、しかしすがるような思いで呟いたティナの言葉は、あっさりと肯定される。
しかし。
「…ここから距離はあるが、砂漠の国の北東、白の学院に行けば、何か分かるかも知れない」
続く彼の言葉にはっと顔を上げた。
『白の学院』。
確かに、世界中の『知』が結集するといわれるその土地には、天地大戦の遺産を集めた、古代図書館があるという。
(ストラジェスのことも…不死鳥のことも、分かるかも知れない)
一気に鼓動が高まり、ティナは思わずカイオスのほうを見やる。
だが、青年の方は、
「…時間が惜しいからな。とりあえず、俺一人で…」
淡々と放たれたその言葉に、開け放たれた扉をふさがれた思いがして、ティナは思わず眉をしかめた。
「…え?」
無意識に漏れたその呟きを、男のほうは『仲間たちを置いて単独行動をとることへの非難』と受け取ったらしい。
少し視線を逸らせながら、
「…ロイドとアベルは、フェイの傍から離すべきじゃない。混血児の村に、あの二人を放り出して行くわけにはいかないだろ。エカチェリーナと…そうだな、クルスも置いていった方がいい」
「…うん」
悄然と頷いたティナに、「子供がいた方が、アベルの気が紛れる」といい置いて、
「アルフェリアも、今回は戦力外だ。ヤツは今戦闘どころじゃない」
面と向かって本人が聞いたら、憤然と胸倉をつかまれそうなことを、至極さらりと口にした。
「………」
順番に仲間たちの名前が上がる中、ティナは、自分の名前が出るのを待ったが、彼の話はそれきり続かない。
ぽっかりと空白の時間があって、結局焦れて自分から聞いた。
「あの…で、私は?」
「…アベルやフェイが心配なら残ればいい、と思うが」
「えっと…」
それは、暗に『付いてきたいなら構わない』と言っているのだろうか。
少し迷ってから、ティナは結局自分のあいまいな『直感』を言葉にした。
「あのね…『ストラジェス』って名前に――どうも、引っかかるものがあるのよ」
「…」
「不死鳥が不安定だから、どれだけ戦力になれるか…は自信がないけど…。足手まといにはならないようにするから、できれば一緒に、白の学院に行きたい」
「…俺は、別に構わないが」
「うん。ありがとう」
なんとなく、背中を押されたような心地に、ティナはほっとため息が漏れた。
そのまま立ち上がると、
「じゃあ、明日さっそくエカチェリーナたちに事情を話さないと。あ、けど白の学院まで、どうやって移動するわけ? いくら混血児の村だからって、ここから砂漠の国まで――まともに船で一週間はかかる距離の空間を操るのはさすがに難しいでしょ?」
「…一応、あてはある」
「あて?」
「人間には難しくても、精霊には何とかできるかもしれないだろ」
「…? うん」
釈然としないながら、まあ彼がそういうなら良いかと頷いて、ティナはふと小さく欠伸をした。
そういえば、夜もだいぶ遅い。
「何か、ごめん。こんな時間まで。先の見通しもとりあえずたったし、詳しいことは明日にして…そろそろ休まない?」
「…そうだな」
それから、カイオスと別れて自室に戻ったティナは、自室の扉を閉めた瞬間とんでもないことに気がついた。
(ん? 今回、ほかのみんなは村に残るのよね?)
単純な――至極、簡単な引き算だ。
仲間の全体数から、村に残る人数を引いたら、白の学院に赴くのは『誰』と『誰』だろうか。
「ふ…」
ティナは激しく動揺した。
ぎゅっと上掛けを握り締めて、床にへたり込む。
(ふ、二人旅っ!?)
なんという、ことだろうか。
急激に、動悸がどきどきと激しくなる。
そして、どうして自分がこんなことに、こんなにも動揺するか分からない事態が、彼女を一番混乱させていた。
――結局、ベッドでゆっくり眠るどころでは、なくなってしまった。
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