できることなら、永遠に明けないで欲しいと念じていても、夜は無情に明けてしまう。
「…ということで、彼と私で、白の学院に行くことに…なった、わけなの」
副船長が目覚めない原因は、強大な風の力を押さえ付ける、属性の源泉の反作用が働いたためではないか。そして、その真偽を確かめに、カイオス・レリュードとティナの二人で、世界中の知が集結する、白の学院に赴こうとしていること――。
フェイに付き添っているアベルやロイドは、もとより話を聞けるような状態にないし、クルスはどこかにふらりと消えてしまっている。
カイオス・レリュードは、村の村長であるディーンに話があるとかで、仲間たち――アルフェリアとエカチェリーナへの状況説明は、自然とティナが行うことになったのだったが――。
「ふーん。ま、王女とロイドは確かに気になるからねぇ。私は残りでいいよ」
「気を付けて行ってこいよ」
「…えっと…、うん、ありがと」
何か、とんでもない反応をされるとばかり思っていたティナは、二人の至極普通の言葉に、気が抜けたような取り越し苦労をしたような、複雑な疲労感を覚える。
(何でもないこと…なのかしら?)
胸中でうめいたところで、がちゃりと扉が開いた。
ふさふさの髪の毛がぴょこん、と覗く。相棒の声がティナの思考をさえぎって、高く響いた。
「ティナ〜。そろそろ出発するってさ!」
「あ、うん」
あわてて立ち上がると、それに応じてエカチェリーナも腰を上げる。
「私も、玄関のところまでは一緒に行こうかね」
「え?」
「ここから白の学院までの道程、精霊を呼び出して魔法陣を発動させるんだろ? イクシオン――水と氷と風の精霊を、さ」
「うん」
「これでも魔道師の端くれ、姿くらいは見たいからねぇ」
「…」
結局、鼻歌を歌いながら2、3歩先を行く相棒とともに、エカチェリーナも並んでいくことになった。
(アルフェリア…やっぱり、ちょっとおかしいわね)
部屋を出る直前に、平静な状態のまま――ティナの話を聞いても、特に表情一つ動かさなかった、ゼルリアの将軍の横顔がよぎる。
平時であれば、『俺も付いていこうか』と形だけでも言ってくれそうなものだが、その表情は、考え込むように、どこか虚空を見つめていた。
そんなティナの耳に、
「白の学院…か。懐かしいねぇ」
こつこつと、玄関への怪談を上がりながら、エカチェリーナの呟きが割り込んでくる。
そこには、言葉通りの『懐かしさ』というよりも、悔恨の響きが漂っていて、ティナの意識はそちらに逸れた。
「…?」
「ああ…悪いね」
視線に気づいたのか、彼女は苦く笑う。
「ちょっと、昔いろいろとあって、ね。左大臣もそれを考慮して私を残すほうにしたんだろうねぇ」
「…うん」
「それより、どうしたんだい? 元気がないみたいだけど」
エカチェリーナの半面に影を落としていた悔恨は消え、代わりに含み笑いのような微かな笑みが漏れた。
言葉にされていないのに、ティナは内心をぐさりとえぐられたような心地がした。
『ぎくり』。
言葉にすると、まさにそうなる。
「そ、そうかしら。い、いつもどおりだけど?」
「そうかい? 旅のことで将軍や私に何か言われるんじゃないかって、内心ひやひやしてた――」
「っ!!」
「って表情してたけど、気のせいだったかねぇ」
涼しい表情で肩をすくめるエカチェリーナの隣で、ティナは熱い豆腐を丸呑みした表情で目を白黒させる。
なんという心臓に悪い会話だろうか。
そのまま澄まして階段を上る音が暫く続いた後、沈黙に耐えられなくなって、ティナは観念してぼそりと呟いた。
「…突然の別行動でしょ? だから…何か言われるんじゃないかと、思った」
「そうかい。何をそんなに悩んでるのか知らないけど、別に、気にすることじゃないと思うけどね」
「………」
「旅の最中に別行動するだけだろ? 特に、今回は場合が場合だ。急なことだし、全員が動く時間も余裕も無い。人選も――まあ納得できる。
あんたにしたって、ロイドやアルフェリアなんかの男性陣と、二人で別行動することだって、今までもあったんじゃないのかい?」
「まあ…あったけど…」
ミルガウスの南、ルーラ国の堕天使の聖堂を調査する際に、実際アルフェリアと二人での行動もとっている。
だが、今回のは『違う』のだ。
なにがどう『違う』のか――自分で説明できないことが、なおつらい。
「ティナはさ〜、カイオスと行動するのが気になるんじゃなくて、自分と向き合うことから逃げてるんじゃない?」
「…クルス」
先を歩いていた少年が、振り返って、いつになく真剣な眼差しでティナを見つめていた。
「逃げたいから、そういう風にそわそわしてるんだよ。ホントはオレも一緒に行きたいんだけど…けど、フェイとアベルが心配だから、さ」
「…ありがとね、クルス」
少年の言葉に、ティナは思わず苦笑した。
10才の少年にまで、何を心配されているのだろうか、自分は。
しかし、『自分と向き合う』とは、自分の何とどう向き合えというのだろうか。
別に自分の心境から顔を背けるようなことをしているような覚えは無いのだが。
「大丈夫だよ。ティナが何も心配ないように、カイオスにはさっき、オレから話をしておいたから、さ」
「…は? あんたみたいな子供が、何言って――」
神妙な表情で頷くクルスに、ティナは思わずいつもの調子で呟いていた。
そして、気づいた。いつの間にか、『そわそわした感じ』がなくなっている。
「ホントに、ありがとうね」
小声で呟いた言葉は、相棒にはたぶん聞こえなかったはずだ。
それでも、クルスはいつもの調子でにこっと笑う。
「…あんたらって」
やりとりを黙ってみていたエカチェリーナが、どこか感心したような調子でため息をついたとき、かっと青い光が玄関のほうから差し込んできた。
「…あ」
「残念、一足、遅かったようだねぇ」
精霊の召喚。
ティナが出てきたらすぐに出発できるように――という配慮か、まさに今、イクシオンが呼び出されたらしい。
実際に、雪の降り積もる白い外界に踏み出したときには、淡い光を放つ魔法陣が完成されていた。
その優美さ、緻密さ。
一瞬で現れた、芸術のような造形に、魔力の高い村人たちから、感嘆のため息が漏れている。
おそらく、村に住んでいる人間、ほぼ全員だろう――何十人もの異民族や混血児たちの真ん中で、見覚えのある精霊と、カイオス・レリュードが佇んでいた。
ティナは思わずそちらに走った。
「イクシオン!」
「…久しぶりだね」
ふわりと淡い笑みを浮かべた精霊は、ティナの姿を見ると嬉しそうに目を細めた。
「その節は迷惑をかけたね。また会えて、嬉しく思うよ」
白とも蒼ともつかない目の色が、雪景色を映して美しく透けている。
――妾将軍の守護獣、精霊イクシオン。
今から100年ほど前、ミルガウス――当時の呼称でソエラ朝と呼ばれていた大帝国の版図を、一気に南北に拡大した、一人の王がいた。
王の妾は、版図拡大にあたって多大な功績を残したが、王が何一つその功労に報いなかったことに逆上し、軍隊を率いて北の大地に侵攻、その地を分離独立し、現在のゼルリア王国の基礎、「セドリア王国」を築いた。
かの妾将軍の片腕となって働いた精霊イクシオンは、彼女の宝を守るためにセドリアの北海の海底神殿に長い間眠っていたのだったが、先のアレントゥムでの石版決壊の際に、その魔力に引き寄せられたかけらの一つと融合し、暴発しかけたところを、ティナたちが防いだという経緯があった。
一つ目の石版の発見。
そう遠い過去のことではないのに、随分と時間が経ったように思える。
「何か、ごめんね。こんなことで急に呼び出しちゃって」
「構わない、君たちには感謝しているから」
「ありがとう」
透明な雰囲気を携えて、微笑をこぼした精霊は、極寒の澄んだ空気の中で、くすりと微笑んだ。
その視線の先には、アクアヴェイル人の青年がいる。彼には聞こえないように、
「彼は、周囲とうまく溶け込んだみたいだねぇ」
「え?」
「雰囲気が、少しやわらかくなった」
何か、背負っていたものが取り除かれたのかも知れないね、と精霊は続けた。
「あなたのおかげかな?」
「…っ!」
心臓が、どきんと跳ね上がったのは、気のせいだ。――たぶん。
何もいえないでいるティナを優しく見つめて、イクシオンは、今度は懸念するように空を見上げた。
「土の気配が荒立っている…」
「…え」
「大体の次第は彼から聞いたよ。僕も水と風と氷の精霊だから…少し前に風の力が一気に増大して、強大な力が消失したのは、知っている。その反動が…起こっているようだ」
「………」
「土の力の源泉が――風に牙を剥いている」
さやさやと精霊の前髪を薙いで行く風の中に、ティナたち人間の目には見えない『何か』の気配を感じとっているのだろうか。
淡い色素の瞳がティナを見た。鏡のような、瞳孔だった。
「僕に分かるのは、土の力がざわめいていること。それから、その力の源泉が近くにある、ということだ。どうすれば、力が収まるのかまでは――」
「…うん、ありがとう」
ティナは頷いた。そこに、
「そろそろいいか?」
カイオス・レリュードが声をかけて、彼女はあわててそちらに向き直る。
「あ、ごめん。話込んじゃって」
「今回は、土の力の源泉を押さえ込む力を探るのが目的だ。ただ――あまり時間はかけていられないからな。長くとも――3日」
「3日、ね」
ティナは、口の中噛み砕くように呟いた。
先日の夜、副船長の眠っている部屋を後にしたとき、最後に見たロイドの背中が、ちらりと脳裏をよぎる。
影の射した、大きな背中。
そのロイドは、今日も部屋の中で副船長に付きっ切り――傍を離れようとしない。
彼のこぼした言葉が耳に蘇った。
――オレは、死に掛けた仲間を、こうして見てることしかできないんだ。
「ううん。3日も、かけてられないわね。できるだけ早く、動かないと」
小さな決意を込めて呟いた言葉を、無言で受け止めた青年の、目の奥にある理性的な光が、微かに笑んだ――ような気がした。実際には、特に表情が動いた様子はない。だが、確かに彼は笑った、とティナは気づいた。
『雰囲気がやわらかくなった』――といえば、確かにそうかも知れない。
それが、精霊の言うとおり、自分によるものだ――とまでは、思えなかったが。
「じゃあ、送るよ」
精霊の言葉に従って、魔法陣に入る。
光が折り重なり、雪景色を覆い隠していく。
イクシオンの蒼の目、混血児の村の村長、そしてフェイの兄――ディーンの憔悴したような碧色の目、クルスのあどけない漆黒の目、建物の向こうからこちらを見送るエカチェリーナの目――
仲間たちの、欠けた数人の姿を、無意識に脳裏に描いた直後、視界が完全に塞がった。
浮遊感、感覚の消失。
一瞬の立ちくらみに似た高揚感の後、光の帯が解かれる。
「…あ」
開かれていく景色にティナは思わずうめいた。
おそらく、人目につかないような森の中に送られたのだろう――茂る木々の木漏れ日が、悪魔的な冷気を持つ雪国の空気とは明らかに違う、心地よい涼気をはらんで、ティナの頬をなぜていった。
指先の感覚が、暖かいぬるま湯に包まれたように、柔らかく解けていく。
その開放感と対照的に、胸中にむくむくと広がる黒い靄。
木々の向こう――遠めにもそれと分かる、聳え立つ建造物。
鐘楼が軽やかに時を知らせる音が、風を渡ってティナの傍を吹き抜けて行った。
この2年間、目にしたことが無いはずなのに、彼女にはその建物が『白の学院』であるということが、はっきりと確信をもって分かった。
自分は、この場所を知っている。
その予感が、迫り来る自分の過去を予感させながら、胸の内に重くのしかかってきたのだった。
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