雑踏の中を近づいてくる人影を、向こうは静止画のように待ち受けていた。
呼吸も感情も、最大限に内側に押し込めて、平静な立場で言葉を交わそうとする覚悟。
アクアヴェイル人の金の髪が、日の光によく映える。
顔の造形が似ているのは、仕方のないことか。
何せこちらは――『本物』に似せて、『作られた』存在だ。
近づくにつれ、こちらを見据える眼光が、その内心をありありと伝えているのを見止めた。
今までも、直接言葉を交わしたことは無い。だが、公の場で無言でこちらを見つける気配は、確かに感じられていた。
「…お初にお目にかかります。『カイオス・レリュード』殿」
こちらが何か言う前に、慇懃に言葉がかかった。
自らの個人的な感情を殺して、必死に体面を取り繕う努力が、彼の平静な表情と裏腹に、固く握り締められたこぶしに現れていた。
「こちらこそ、お初にお目にかかります。エミアス・セントア・ブルグレア殿。まさか、このような場所で、お会いするとは」
「………」
少年の面影を残したアクアヴェイル国王の側近――エミアスは、こちらを責めるような表情をあからさまに浮かべた。
この場所にいる理由を詮索されたくない――腹のうちを探られたくない、ということか。
年若いせいか、性格のせいか、本人の意思と裏腹に、面白いほどに心のうちが分かる。
個人的な事情ならともかく、国家間の出来事に発展しそうなことなら、深入りは避けるべきだ。
特に、アクアヴェイル公国は、秘密裏にミルガウスの南の大国、ルーラ国と書のやりとりをし、軍事的な同盟が結ばれるのではないかと懸念されている。
「本日は、お姿をお見かけしたので、ご挨拶にと参っただけ、私用がありますので、これで失礼いたします」
当たり障りの無い言葉をつらつらと並べ立てて、場を去ろうとすると、恐れ入ります、と制止の言葉がかかった。
半身で振り向くと、エミアスは何かを訴えかけるような、しかし、自らに対してそれを戒めているような、葛藤の表情を浮かべていた。生真面目に呼吸を整えて、言葉を選ぶように沈黙する。
「失礼を承知で、申し上げます。私には、父の違う兄がいました」
「………」
「私の実の父は、私を産んで、すぐに消息を絶ちました。義父…ダグラスと、義兄カイオスは、そのような境遇の私を、実の家族のように育ててくれました」
それはおそらく、公式の場で、もしくはアクアヴェイルとミルガウスの関係の中で、『カイオス・レリュード』の名が挙がるたび、少年の心を蝕んでいた感情だったのだろう。
「私は――アクアヴェイル王子の名代としてシルヴェアに参り、そして役目を全うした兄を、心から尊敬しています。今でもです。ですから…」
何か、訴えたいものが確かにあるはずなのに、それを言葉にしてぶつける相手ではない。
その狭間で苦しみながら、エミアスは唇をかみ締めている。
「でしたらなおさら…、『カイオス・レリュード』が、ミルガウスの人間として振舞っているのは、看過しがたいでしょうね」
「………っ!」
同情的な物言いにならないよう、客観的な立場から感情を排して投げかけたが、相手は見えない拳にぶたれたように、うつむいた。
カイオス・レリュードが、そのように名乗っているのは、前左大臣バティーダ・ホーウェルンに、その名を頂いたからだ。その事実は、おそらく目の前の青年も知っている。
だがそれでも、親愛する異父兄の名を名乗る人間の存在が、許せない、やるせない。
行き場のない個人的な憤りを、眼前の人物にぶつけるしかないふがいなさ――。
(昔から…こういう情に流されやすいところは、変わらないんだな)
立ち尽くすエミアスに対して、何気なく抱いた印象に対して、カイオス・レリュードは思わず思考を止めた。
無意識につむいだ思考を、もう一度反芻する。
『昔から』、…――『変わらない』?
(今日、始めて言葉を交わした人間だぞ…)
眉をひそめて自問する間に、エミアスは自身の立場を思い出したようだった。
「も、申し訳ございません。とんだ無礼なことを…!!」
「…いえ」
「あの、では私はこれで」
狼狽を隠すように顔を伏せ、エミアスは小走りに去ってしまった。
「………」
すぐに人ごみに紛れた背中を見送って、カイオス・レリュードも踵を返す。
だが、すぐ近くで待っているはずの女の姿が、まったく見当たらない。
(…)
どこに、と視線をめぐらせるが、次々に現れては消えていくこの雑踏の中では、顔の区別も容易につかない。
とりあえず、広い場所に出るか、と半ばため息交じりに、彼は歩き出した。
■
「………」
人々の波の中を、駆け抜けていく。
ぶつかりながら、つまずきながら、だが自分の身体をめぐる動揺と気恥ずかしさが高速回転して、立ち止まってゆっくり息つくこともできなかった。
(どうして…あのようなことを…!!)
エミアスは、先ほどの自分の行動を省みて、顔から火が出るほど恥ずかしい、という心地を嫌というほどその身で味わっていた。
頬が、頭が、熱くて火照って、どうしようもないほど叫び出したい。
「どうして…っ」
どうして、始めて言葉を交わしたような人間に、――しかも、成り行きで兄の名前を押し頂いただけの人間に――自分の感情をぶつけるまねをしてしまったのか。
カイオス・レリュードは死んだ。
兄は、もうこの世にはいないのだ。
その兄の名を名乗っている男がいる――そこに生じる葛藤は、赤の他人にぶつけるべきものではない。
自らの胸のうちに秘め、自らの胸の中で折り合いをつけるべき、あまりにも個人的な事柄だ。
(あんな…)
「あんな、他人に…」
他人、と呟いた少年の口元が、力なく閉じた。
逸っていた血流が、急にすっと冷えて、意思と関係なく高速回転していた足が、ぜんまいが切れたようにゆっくりと止まった。
「他人…」
そうだ、彼は『他人』のはずだ。
だが、幾度か目にした公の場で、さきほど言葉を交わした中で――彼を『他人』と思えない自分が、確かに、いた。
(似ている…)
『他人』だったら、あんな振る舞い、決してしなかった。
穏便に言葉を交わし、穏便に場を切り抜けて――後は、思う存分、兄の思い出をかみ締めることができた。
だが、あの人は、兄『カイオス・レリュード』に似すぎている。
顔の造形だけではない。中に内包した、静かな理性、落ち着いた雰囲気。表情には出さなかったが、相手の立場を汲み、それを否定しない――やさしさ。
そう、あの人は理不尽なこちらの言い分に対し、責めたり、感情を害するそぶりを決して見せなかった。
「兄さん…」
その言葉をかける相手は、もうこの世にいないはずなのに。
エミアスは、堂々巡りする思考から逃げるように、一つ頭を振った。
そうだ、今の自分にはやるべきことがある。
(早く…)
国王陛下をお探ししなければ。
「っ…」
決意を込めて走り出した少年は、己のなすべきことに集中し、前を向いて進んでいった。
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