手についた血の匂いは、土で削られても、風に攫われても、取れなかった。
半ばそれから意識を逸らすように、無心に墓穴を掘り続けた。
マリアと――幾人もの『ダグラス』たち。
砂漠の国で、すれ違っただけの他人。
ダグラスたちの襲撃に巻き込まれて、命を落とした女性と、その襲撃者たちの血の匂いが同じであることが、なぜか不思議に彼には感じられた。
穴を掘ることで、そのまま力尽きて死んでしまえばいい――すべての遺体を葬って、目を閉じたとき、確かにそう思った。
なのに、次に目を開けたとき、死神にしては軽薄な――頭から羽の生えた不可思議な人間がいた。
冗談のような格好をしてへらへら笑いながら――唯一冗談ではない光を放っている目の奥で、男は彼の真意を見抜こうとしているようだった。
――彼女が死んだのは、てめーが弱かったからだ。じゃ、どうすればいい?
至極簡単な――単純な問いだ。
だが、それに答えることが、問題を解決することではない。
それでも、彼は応えた。
――強くなればいい。…強くなりたい。
失っても、前に進めるように。
もう、失わないように。
■
「……っ」
目を開けると、間近に女の寝顔があった。
カイオス・レリュードは、一瞬、息を止める。
状況が、判断できない。
そんな男の様子にまったく気づかず、ティナはベッドの傍の椅子に腰掛けたまま、ベッドに突っ伏すように上半身を投げ出してすやすやと寝入っていた。
のん気に寝息を立てる様子は、邪気のない子供そのものだ。
「…」
ため息混じりに上体を起こすと、右足に鈍い痛みが走った。
その痛みが、彼がここ――おそらく、街にある宿屋の一つだろう――に運び込まれた理由を、ぼんやりと思い出させる。
祭りの最中、起こった事故。
仮の小屋とはいえ、結構な重量のある木材が直撃したのだ。手当てはされているようだが、治しきれてはいない。幸い骨は折れていないようだ。戦闘は無理だが、何とか歩くことはできる、か。
「ほんと…バカだろ」
半ば呆れた面持ちで、カイオス・レリュードは傍らの少女を見下ろした。
崩れ落ちる材木の下にいる他人を庇おうとして、盲目的に突っ込んでいく姿が、性質(タチ)の悪い悪夢のように、くっきりと蘇る。
勇敢であることと、無謀であることは違う。
他人を助けることができるのは、自身にその余裕がある人間だけだ。
余裕も無いくせに、情だけで先走り――その結果、自分の身を危険にさらしていたら、それこそ命がいくつあっても足りないだろうに。
ただ――今回に限って言えば、ヒトのことをそうやって偉そうに言えるクチでもない。
視線を逸らして、彼はもう一度呟いた。
「…バカだな」
「んー…」
傍らで、ティナが身動きする。
長い髪が顔にかかって、少々寝苦しそうだ。
指先ではらってやると、空気が揺れて、ほのかに花の匂いがたった。
「…ん」
寝るには苦しい体勢のはずなのに、起きる気配がない。
大方、自分のせいで怪我をさせた、と無駄に気に病んで、必死に回復魔法を掛け続けた結果、自分が疲れて眠り込んでしまった…といったところだろう。
だとしても、警戒心がなさ過ぎる。
ヒトを遠慮なくけだもの呼ばわりする割に、行動があまり伴っていない。
吐息のように思わず漏らしたため息には、微笑にも似た苦笑の色があった。
「お前、その調子だと、いつか…襲われるぞ」
ほとんど、口の中で呟いたとき、がちゃりと扉が開いた。
その音に、ティナがはっと目を開いたのをけはいで感じながら、カイオスは視線をゆっくりと細めて、その人物を迎えた。
祭りの喧騒の中で、一瞬捉えた人影――。
軽薄な死神。
二度と、――会いたくないと思っていた人間の一人だ。
「やっほー『名無し』君! お目覚めみたいで何より。ご機嫌いかがかなっ?」
頭から羽を生やしたアクアヴェイル人は、旧友に会ったかのような気軽さで、よっと手をあげて見せた。
■
「………」
羽の生えた軽薄男と、目を覚ましたカイオス・レリュードを部屋の中に残して、ティナは宿の一室――祭りの最中にけが人が出たと聞いて、親切な主人が、手当てのために、一室を貸してくれたものだ――を出た。
(どうしよう…)
二人は、やはり旧知の人間のようだった。
しかも、『左大臣』としてのカイオス・レリュードの知り合いではなく、彼がミルガウスにたどり着く前――ダグラスの襲撃を交わしながら放浪していた頃の知り合いで…しかも、剣を教えた――『師匠』のような存在だという。
道理で、身体の捌き方がどこか似ているわけだ。
だが、現在のティナにとっては、そんな些細な事実、どうでもいいことだった。
(…どうしよう…)
カイオス・レリュードが怪我をしたのは、明らかに自分のせいだ。
木材がその足に突き立っていた――実際には切り口は鈍く、貫通していなかったが――光景を目にしたとき、そして、ぐったりとした身体を受け止めたとき。
その光景が、ティナのすべてを縫い付けて、その場から離さなかった。
どうしよう、と思うただその言葉だけが、どくどくと高鳴る血と一緒に、体中を回っていた。
あの羽男がいなかったら、その場から一歩も動けなかった、と思う。
仲間が負傷する、という事態は、今までもあった。
なのに、どうしてこんなにも、縛り付けられたように――苦しいのか。
こんなに苦しいのは、カイオス・レリュードが七君主に操られて、自分に剣を向けたとき以来だ。だが、あの時と今では、何かが違う。
『何か』が。
だが、その違いを認識することは、――それを直視することは、ティナにはできなかった。
ただそれから逃げるように、必死に回復魔法を掛け続けて――いつの間にか、疲れて眠ってしまった夢うつつに、彼の言葉を聞いた。
――聞いて、しまった。
――『お前、その調子だと、いつか…』
(なんで…)
彼が怪我をしたのは、ティナを庇ったせいだ。
前後の見境なく突っ込んでいった自分の非を責めるものだと――、あきれ果ててため息をつくものだと思っていた。
むしろ、いつも通り、そうやって悪態でもついてくれればよかったのに――
(『襲われる』って、どういうこと…)
壁に背を預けて、ティナは肩を落とした。
呆れてくれれば――怒ってくれればよかった。
あんなに穏やかに、まるでやさしく囁くように言われたら、調子が狂ってしまうではないか。
「…っ」
『何か』。勝手が違う。
だが、その何かを認識することが、直視することが、現在の彼女にはできなかった。
だから、目を背けた。
必死で――逃げた。
(襲う、のは…彼が…じゃなくて、誰かよ、誰か。 ほかの『誰か』が私を襲うのよ…!)
真剣に『何か』から逃れる可能性を探すティナの思考は、やがて、一つの結論を探り当てる。
自分を襲う理由をもつ存在。
彼女には、幸か不幸か、心当たりがあった。
(まさか…七君主、とか?)
自分でひらめいて、はっとした。
現在は、沈静化しているが、カイオス・レリュードは、長い間、七君主に追われていたのだ。
以前、堕天使の聖堂で接触があったにも関わらず、彼はそれを仲間たちに伝えなかった。それは、周囲を巻き込みたくなかったという配慮だったというのが、今では分かる。
(ちょっと、また一人で抱え込んでるなんてことないわよね)
秘密裏に、再び七君主がカイオス・レリュードに接触を図った。
だが、今はフェイの目が覚めない原因を突き止めるので、全員それどころの状態ではない。
そこで、彼はその事実を自分だけの内にとどめることを選んだのではないか――。
(私があんまり警戒心ないから、心配して思わず口に出したってこと…)
つじつまは合う。
自分の心境と向き合いたくない、と必死に目を背けた末の可能性が、俄然ティナの中で信憑性を帯びてきた。
むしろ、最近まったくよく分からない自分の本心より、こちらの推測の方がよほど的を得ているとさえ感じた。
「気をつけなくちゃ、ね」
こんなことで、うじうじと悩んでいられない。
一度、そう決意すると、もう壁に背を預ける必要は無かった。
ティナは再び自身の足で立つと、男たちの会話が終わるまで時間をつぶそう、と宿を出る。
――と。
「あれ? あなたは…」
宿屋の前で、挙動不審にうろうろしている少年がいる。
金の髪、青の瞳。
生真面目な表情の中に、どこか幼さが残る。
さきほど、こちらをじっと注視していた。
『カイオス・レリュード』の弟――。
「えっと…」
「………」
立ちすくむティナに、どこか決まりの悪そうな表情を浮かべて、アクアヴェイル人の少年は、ぺこりと頭を下げた。
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