Lost Words
    神は始め、天地を創造された。「光あれ。」――こうして、光があった。
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  第六章 再び見えた『君』  
* * *
 その少年は、部屋の片隅で、しくしくと泣いていた。

――どうして泣いているの?

 悲しいからだよ、と少年は応えた。
 美しい水の王国。
 優美で繊細な情緒溢れる芸術の国。
 その高い文化水準と裏腹に、他国との関係を保つのに長年頭を悩ませて来た。
 彼は、その架け橋として望まれた。
 望まれる、はずだった。

――君は、選ばれなかった。

 そう、僕は選ばれなかった。
 選ばれたのは有能な臣下の息子で、だけど『人質に遣られた王子』はこの国にはいないことになっているから、ずっと部屋からでることもできずに、広いお城の使われなくなった古い古い居住区の一角に、数人の召使たちと追いやられている。

――外に出ることができないのが、悲しいの?

 違うよ、と少年は首を振った。
 父王も母である王妃も、彼のことなど『忘れたかのように』、面会にくることはなかった。
 召使たちも、黙々と働くだけの動く人形のようだ。
 挨拶と地理歴史の勉強で口を開く以外には、まるで『いない存在』のように振舞われる。
 遊び相手のいない少年の足は、おのずから広大な城の奥深くを目指した。
 それは、冒険心からくるものというよりも、押しつぶされそうな消失感から逃れるための、焦燥にも似た探索だった。
 そこに、その『声』はいた。
 厳重な扉に封じられた、その向こう。
 ささやくような風にのって頭に響く声に、はじめは驚いたけれど、すぐに怖くなくなった。
 無駄なことを話さずに、黙々と働く召使たちの方が、少年にはよほど恐ろしい。
 怖いのは――そんな日々の中で、自分が『何者か』であることを、忘れそうになるからだった。
 いらない存在ではないかと、消えそうになってしまう自分が、怖かったからだ。

――君は、『一人』になることが怖いんだね。

 そうだよ、と少年は頷いた。
 人質に望まれるほどの、才覚も才能も持ち合わせなかった自分が悔しい。
 自分に力のないことが悲しい。
 一人になることが怖い。

――そうだね。一人は怖いね。

 声は囁いた。
 それは甘美な調べとなって、少年の手足を縛った。

――僕も昔、『ここ』に閉じ込められてしまって、ずっと一人だった。
  大切な人に、裏切られてね。
  だから…君の気持ちも、わかってあげることが出来ると思うんだ。

 友達になれると思うんだ。
 その言葉は、とても美しい光のように、少年に優しく届いた。
 手足を絡めとり、まどろみの中に誘おうとする夢魔のように、優しく妖しい囁きだった。

――アクアヴェイル公国の王子さま。
  君なら、僕の封印をとくことができるんだよ。
  だけど、それには色々と準備が必要なんだ。
  もちろん、誰にも見つかってはいけない。

 できるかな、と問われた言葉に、少年は少しわくわくした。
 罪のないいたずらをたくらむ子供の心が、――そして、それを長い間取り上げられて来た飢えた思いが――少年を激しく駆り立てていた。

――君に、会いたいよ。
 『ケイン・カーティス・アクアヴェイル』。

 声は、あくまで優しかった。
 その優しさに酔いしれるかのように、少年は扉を開ける方法を探し続けた。
 何年も何年もかけて。
 やがて少年から青年となった男が、病に倒れた王の後を継いで、その国の国王となってからも、ずっと――


「まあそうやって、彼がずーっと頑張ってくれたおかげで、この通り復活できたわけなんだよねぇ」
 白の学院の地下に現れた男は、道化が喝采をねだるような仕種で、ひょいっと首を傾げた。
 存在がぶれてつかめない感覚。
 目を凝らすと、船に酔った時のような不快感がこみ上げてくる。
 強烈な違和感。
 ティナは潜めた息の下で、その男の名前を吐き出す。
「ストラジェス」
「まさか、国王も有能な大臣とやらも、平凡でぼんくらな王子が僕の封印を解くなんて考えもつかなかったみたいだよ。
 そして、彼と僕は一緒に『ここ』まで生きて来た。誰にも気づかれることなく。
 優秀な臣下の息子と引き比べられて、凡庸と言われた王子がさ、誰にも気づかれることなく!
 おかしいよね? これって、おかしいよね!? ふふ、あはは、あはははははは!!」
 男の輪郭が激しくぶれて、きんとした耳鳴りのような不快感をティナは感じた。
 同時に心臓を素手でそっと撫でられたかのような感覚を不意に覚えた。ざらりとした鳥肌がたつ。
「あんた、本当に昔のストラジェスじゃないのね」
 独り言のように呟いて自らの耳に跳ね返った言葉には、込めたつもりのない悔恨と切なさが、隠し切れずににじみ出ている。
 それを何かの合図と取ったかのように、ストラジェスは突然哄笑を止めた。
 しん、と静寂が落ちた。
 紫欄の瞳と青玉の瞳が、縛り付けられたかのように拮抗して、そこでとまった。
 時間を超越して。
「ティアーナ、君がそれを言うなんて随分じゃないか」
「私があんたを裏切ったって言いたいわけ? 違うでしょ。『ストラジェスの神具』なんて作り上げて、自分で理性踏み外したのはあんたのほうでしょ」
「誰のためにやってやったと思ってるんだい?」
「別に誰も頼んでないわよ」
 平静を装ったつもりの声が震えているのに自分で気づいて、ティナは苦く苦笑した。
 『不死鳥憑きの巫女』としての役割しか知らなかった自分に、『自らの選択で生きる』という息吹を吹き込んでくれた男性。
 最後の瞬間、とどめを差す手が止まったのは、そこにたどり着くまでに自らの迷いと決別できなかったからだ。
 最後まで――道を踏み外した男を、殺すことを覚悟できなかった。
(私は…)
 復活したその男と、再び向き合えることが、できるのだろうか。
 硬く拳を握り締め、その戸惑いをもてあまして、ティナは一瞬視線をストラジェスから逸らした。
 地面に落とした視界にすっと影が差す。
 え、と思って再び面を上げたその眼前に、アクアヴェイル人の青年の背中がある。
「話している最中悪いんだが、聞きたいことがある」
(カイオス)
 青年は、その不可思議な存在を目の前にして、それでも普段の平静な態度を崩していなかった。
 冷静な声が白の学院地下に充満していた空気を、ほんの少し緩ませる。
「君は…」
「カイオス・レリュード」
「ああ、君が。話だけは『彼』に聞いているよ。『優秀な臣下の息子』くん」
「………」
 歌物語の中でしか聞き及んだことがなかった人間に、突然出会ってしまった偶然を喜ぶ残酷な素直さが、口調の端からにじみ出ている。
 初対面の人間同士が、言葉を交わすような。
(初対面?)
 ティナは、眉をひそめた。
 ストラジェスの封印を解いて、――おそらくそのまま身体を乗っ取られた青年は、立場上アクアヴェイル国王だ。だとすると、『ミルガウスの左大臣』であるカイオス・レリュードの顔を知らないのは、不自然のように思える。
「俺が最後にアクアヴェイル国王と謁見したのは、半年前のことだ。アクアヴェイルとの休戦協定の確認のために、な」
 ティナの疑問はカイオス・レリュード自身の疑問でもあったらしい。
 青年が口にした『半年前』という言葉は、ティナとクルスが闇の石版の欠片を持って、ミルガウスを訪れようとしていた、その直前の時期と重なる。
 つまりそのときには、まだストラジェスの封印は解かれていなかった。
「ああ、だって僕が復活できたのは、ついこの間のことだもの」
 アクアヴェイル国王の皮をかぶったストラジェスは、愉快そうに身体を揺らす。
 手品の種明かしをする道化のように、おどけた調子で。
「だって考えてもご覧よ? 平凡で凡庸な王子が、何百年にもわたって誰も解くことのできなかった封印を、たかだか十年そこらかけたくらいでどうやって解けると思うの?
 僕自身もさ、半分くらいは暇つぶしの退屈しのぎだったんだよ。どーせ、僕の復活に必要な『最後の条件』は、永遠に満たされることはないだろうからってさ」
 へらへらと笑うストラジェスの中に、ティナはある既視感を覚えた。
 ストラジェスではない、別の『誰か』から感じた印象。
 煙のように一瞬立ち昇ってすぐに消えたその感覚は、中途半端な不快感だけを胸中に残す。
「ねえ、ティアーナ。覚えてるかい? 100年前、君が僕を倒してくれちゃった後だよ。
 僕は神剣の力を引き出す神具のおかげで、ほとんど不死の身体になってたからかろうじて助かったんだけど、光の属性継承者に捕らわれちゃってさ。精神だけ抜き出された上に、何重にも封印を施されたアクアヴェイル王城の最奥に閉じ込められた。
 空間まで歪められてさ」
 『空間』。
 その言葉を聞いた瞬間、眼前の青年の肩がぴくりと動いたのをティナは見逃さなかった。
 同時に、ストラジェスに先ほど感じた『何者か』の印象の主の正体が、水面から影が競りあがってくるかのように、すっと頭の中に湧き出て来た。
 カイオス・レリュードの背中が、それとなく緊張を帯びた。
「空間を操れる存在の介入」
 研ぎ澄まされた刃のような声音が、青年の背中越しにティナにも届いた。
 おそらく勘の鋭いカイオス・レリュードは、『アクアヴェイル国王の中に棲みついたストラジェス』の復活の話を聞いたときから、この可能性に思い当たっていたのだろう。
 空間を操れる存在は、限られている。
 そして『ついこの間』、その存在が解き放たれたばかりだった。
 ソレを召喚した男から切り離されて。
 ティナにもはっきり確信できた。
 アクアヴェイル国王に取り付いているのは、ストラジェス『だけ』ではない。
「七君主」
 図らずも、ティナの呟いた言葉と、カイオスの鋭い声が空気を震わせたのは、同時だった。
 その言葉が、何かのきっかけになったようだった。
 錠前がかちりと鍵穴にはまったように。
 突然『ぶれた』存在が、ぴたりと停止した。
 凡庸な青年。
 ティナの記憶にあるままの姿のストラジェス。
 そして――赤い目をした、少年のような姿をとった人外の存在。
 ――七君主。
「ご名答」
 三つの存在は重なり合いながら、確かに『一つの存在』として、そこにいた。
 それは何か出来の悪い御伽噺の続きを見せるように、ティナの視界を漫然と漂っていた。

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