「本当なら、この地に『存在』すらできないところだけど――マモンが宿った石板のおかげで、かろうじて存在を繋ぎとめておける――」
混血児の村で、アベルの身体から追い出された七君主ベリアルは、そう口にした。
それは、シェーレン国の『死に絶えた都』で、ダグラス・セントア・ブルグレアから切り離された七君主が、その時隠し持っていた闇の石版へ宿ったもの。そして、その後アベルに潜んでいた七君主ベリアルが、フェイを連れ去る際に異空間へと持ち去ったものだった。
ベリアルが消え去った後、石版のかけらだけがその場に残された。
もともとそこに『宿っていた』はずの七君主がどうなったのか――一連のめまぐるしい状況の中で、誰もがそのことに、思い至ることはなかった。
■
「久しぶりだね。人間」
子供のような風貌をした七君主は、『聖者のような』微笑を浮かべて、対象を睥睨していた。
それは、直接ティナに向けられたものではないのに、背中を氷の手で撫でられたような悪寒を呼び起こした。
無意識に自分を抱きしめながら、彼女は自分の視線が、眼前に立つ青年の背中に、抗うすべなく吸い寄せられていくのを感じる。
彼は、その正体が『七君主』だと知れた瞬間、信じられないことに背中に宿していた緊張を解いていた。
全くの自然体で、自らを見つめる魔の大君主と相対しているように見えた。
「俺は二度と会いたくなかったんだが」
七君主の投げかけに応じた言葉にも、特に感情が込められている様子はない。
ただ透き通った水のように、しんとその場に響いた。
「連れないなぁ。僕は君の『命の恩人』なんだよ」
「冗談も大概にしろ」
「ふふふ」
「で、わざわざストラジェスの復活に手を貸した――お前の目的は何なんだ」
聖人のような微笑を浮かべた子供の、紅い瞳だけが三日月のように、にんまりと形を変えた。
そこから覗く光は、酷薄な悦びに満ちている。
「ついでだよ」
「ついで」
「いいよ人間。君と僕の仲だもの、特別に教えてあげる。僕は、そもそもストラジェスを解き放つために、アクアヴェイルに向かったんじゃない。別の人間に用があって――そいつのいる場所にたまたま、『ストラジェスの復活を願う』現在の契約者がいたまでのことさ」
「別の人間?」
「ああ」
カイオス・レリュードの声に、誰何の響きが宿る。
七君主の目が、さらに禍々しく細まっていく。両端が不気味に釣り下がった、一本の線のように。
「君もよく知っている人間だよ。とてもよーく、ね」
「…」
ティナはそのとき、何か不思議な予感がした。
同時に、とてもいやな感覚がした。
それは『不死鳥づきの巫女』としての直観か、ただの『女の勘』のようなものだったのか。
「ダグラス・セントア・ブルグレア」
七君主とカイオス・レリュード。
二者の放った音は不自然なほど同じ呼吸で一人の人間の名前を唱えた。
さらに、赤い目の子供は続けた。
おとぎ話の続きを、無邪気に話して聞かせるように。
「相変わらず君は勘がいいね。
そう、君のおかげで僕から解放されたダグラスを、僕は追ったんだ。彼はアクアヴェイル公国に居た。僕は彼と再び『契約』を交わした。
だからって、彼の『身体』をもらったわけじゃないよ」
くすりと子供は笑う。
彼は、完全に面白がっている。いや――彼が『面白い』と思う反応を、こちらが起こすと決め付けて、へらへらと笑いながら佇んでいる。
それは、腹立たしたよりも、不可解な居心地の悪さを感じさせた。
誰一人、言葉を放つものはなかった。
水が湛えられたように穏やかな静寂が、真綿で首を締め付けるように優しくたゆたっている。
七君主の声が、突然それを破った。
「分かった。お前と契約しよう、七君主」
ティナは思わず自分の肩を抱いた。
口調ががらりと変わっている。
それは、彼がダグラス・セントア・ブルグレアと交わした『契約』について、ダグラスの口から語られたことを再現しているかのように聞こえた。
「私とて命が惜しい。闇の術に手を染め、妻を失った抜け殻でも、お前にくれてやるには未練がある」
『未練』。
その言葉にひっかかりを覚えた。
ダグラス・セントア・ブルグレアは、10年前アクアヴェイル王子の代わりに、秘密裏にシルヴェア国に人質に遣られた一人息子『カイオス・レリュード』が、不慮の事故で命を落としたのを嘆いて世界の破滅を願った。彼の願いに応じて召喚された七君主は、ティナの眼前に立っている青年をはじめ、幾人もの『分身』を作り出し、アレントゥム自由市を壊滅させ、魔王カオス復活をもくろんだ。
その後、ダグラスの身体から七君主は解き放たれた。
しかし、彼の『願い』自体はまだかなえられていない。
(ちょっとこれって)
ダグラスが七君主と交わした『契約』。
とんでもない可能性を考えたティナの予想は、まったく予想外の形で裏切られた。
いい意味で。
そして、ある意味それよりも、遥かに悪い意味で。
「私の息子を――カイオス・レリュードを殺してくれ」
その言葉は、静寂に水を打ったようにぽつんと響き渡った。
ティナは思わず、カイオスの背中を見たが、それはその意味を理解したからというよりは、七君主の口から飛び出した言葉にただ反応して対象に視線を移しただけ、といった方が正しかった。
(私の息子? 殺す?)
言葉は分かる。
だが、意味がまったく分からない。
ぴたりと止まってしまったティナの頭に、七君主の言葉だけが流れ込んでくる。
「そうすれば、私は喜んでお前に喰らわれてやろう。だって、さ」
指揮者が下手なオーケストラの演奏を終わられるように肩をすくめて、七君主はにやりと笑った。
その言葉が、彼が『面白い』と思う反応をこちらが起こすと決め付けているように。
「だから僕はまず、動ける身体を捜したよねぇ。そしたらいたんだよ。おあつらえ向きのがさ」
アクアヴェイル国王の身体を漂いながら、子供の外見をした七君主はくるくると空を回って見せた。
たった一人の観客を前に、たった一人で舞台に立った道化。
それを傍から傍観しているように、ティナには感じられた。
そう、呆然と突っ立っているだけの自分に対して、カイオス・レリュードはどこまでも冷静だった。
まるで、すべてが『作り物』と始めから分かっている話を聞いている時のように。
「ティアーナ!」
鋭い声が自分を呼んで、ティナははっと顔を上げる。
かりそめの巫女シェキア・リアーゼが、血塗れの身体を起こして、必死に何かを自分に伝えようとしている。
「さ、おしゃべりはここまでにしようかな」
七君主とストラジェスを纏ったアクアヴェイル国王が一歩、足を前に踏み出すのと、シェキアがこちらに何かよこしてくるのは、ほぼ同時だった。
「っ!」
思わずよろけながら受け取った瞬間、光が自分を――そして、カイオス・レリュードの周りを取り囲んだのを感じる。
シェキアの術。
空間移動。
「すまない。それだけしか護れなかった」
光の向こうから声だけが届いた。
返事を返す前に視界が白に染まり、軽いめまいと浮遊感を感じた後、突然重力に引っ張られて石の床に叩きつけられた。
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