Lost Words
    神は始め、天地を創造された。「光あれ。」――こうして、光があった。
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  第七章 悲しき英雄  
* * *
 ティナたちが次にたどり着いた小部屋は、今までの部屋と違い、今来た道以外の三方を壁に囲まれた、行き止まりとなっていた。
 通路から5段程登った少し高い位置にあり、水も膝下くらいまでしかない。
 下半身が濡れた服が、急に重さを増す。
 カイオス・レリュードの身体をそっと床に座らせると、ティナはあたりの様子を探った。
 天井が、驚くほど高い。
 首をいっぱいにして見上げた遥か果ての天井に、小さなガラスがはまっていて、そこから光が降り注いでいた。
 光はカーテンのようにやさしく石部屋を揺らし、澄んだ水を反射して幻影的にさざめく。
 こんなときでなければ、ほっと見入るような風景だ。
 三方の壁の一つに祭壇のようなものがしつらえられており、そこには100年前の古代語で、こう書かれていた。
『汝、光になれ』
 そこから、壁面に沿って、点々と取っ掛かりのように石が突き出している。これを支えに上に登れ、ということなのだろうか。
 奇妙なのは、祭壇に人間がまるごと収まりそうな大きな鏡があるが、覗き込んでも何も映っていないことか。
 そこまで確認したとき、どん、と何かの魔力が発現したような気配を遠く感じた。
 身の毛のよだつような邪悪な波動。
 七君主。
(まずい)
 ついに、自分たちの位置がかぎつけられたのか。
 空間がゆがめられた地下迷宮を、徐々にこちらに近づいてきている――。
 ティナは、水に濡れて足にまとわり付く布に閉口しながら、カイオス・レリュードの方に戻った。
 青年のほうも、緊急事態を察したらしい。
 こちらを見上げらながら、短く問うてきた。
「次の道は」
「あの壁を伝って、上に登れってことみたい」
「なるほどな。じゃあ、早く行け」
 何気ないその言葉は、ティナの内側を、刃物でそぎ落とすように、深く抉った。
 これまでの疲労感も、水に濡れた服が肌に吸い付いてくる不快感も、一瞬のうちに消し飛んだ。
「…え」
「お前も、気づいてるだろ。七君主が迫っている。時間の猶予はない」
「そう、だけど…でも」
 水に長い間浸かったせいで体が冷え切ってしまったのだろうか。
 唇がかじかんで、うまく言葉がでてこない。
「その壁を登ったとしても、すぐに出口とは限らない。とにかくこの場所を出ないことには、話にならないだろう」
「そう、じゃなくて…」
「シェキアの…弟の意思を、無駄にする気か?」
「あ…」
 つっかえながら、なんとか音を搾り出そうとするティナを、カイオスはいつも通りの平静な表情で見つめていた。
 それはいつも通りでありながら、何かを『決めてしまった』揺るがなさをも感じさせた。
 決して声を荒げるわけでも、押し付けているわけでもない――むしろ、穏やかな調子なのに、心臓を杭を打ち込まれたように苦しかった。
 さきほども感じた感覚だった。
 その場を動けないのでなく、あえて動こうとしない、と感じたときの。
 決定的な言葉を聞きたくなくて、ティナはカイオス・レリュードをここまで引っ張ってきた。
 だが、ここまでだ。
 石の壁を登るという行程を経なければ、出口にはたどり着けない。
 (ここまで、なんだ)
 だから、その言葉を、言葉として音にすることしか、ティナには残されていなかった。
「あんたは、…どうするの?」
 それは、光が降り注ぐ石部屋に、ぽつんと一滴のしずくが落とされたように頼りなく響いた。
 目の奥がぎゅっと締め付けられたようになって、頭が痛い。
 泣きそうなんだ、と気づいたら急に情けなくなった。
 相手はどこまでも冷静で平静なのに、自分はまるでだだをこねる子供のように拗ねている。
 沈黙に耐えられなくなって、ティナは思わず視線を合わせるように自分も座り込むと、身を乗り出すようにいった。
「自分ひとりで戦うつもり?」
 こちらを見る青の視線は、逸らされることなくティナを見続けていた。
 彼女自身の結論を出すのを、じっと待っているように。
「その怪我で…あの七君主と、満足に戦えると思ってんの? それとも、また周囲の人間を巻き込みたくない、とか自分勝手な自己満足で私一人、先に行かせる気?」
 これじゃ、子供の癇癪だ。
 分かっているのに、こんな言い方しかできない。
 せめてちゃんと相手の方は見なければならない――そう思うのに、思いと裏腹に視界が滲んで、相手の表情もうまく捉えられなかった。
「何よ、全部一人で背負うみたいな顔して、いっつも、皆を関わらせないようにして…!」
 嗚咽がのど元まで上がってきて、それ以上続けられなかった。
 八つ当たり以外の何者でもない言葉を耳にしても、カイオスは激した様子はなかった。
 いつかの砂漠で言い争ったときみたいに、せめて相手も激昂してくれたら、自分だって底なしに感情を爆発させることができたのに――。
(これじゃ、私一人から回ってるだけじゃない…)
 いつもそうだ。
 不意に、ティナは思った。
 何かあるとぶつかっていくのは、もっぱらティナのほうで、相手の反応に一喜一憂してバカみたいに振り回されている。
 今回も――ある意味最初から『覚悟を決めていた』カイオスを、ティナが自分の我を通してここまで引っ張ってきた。
(私一人で…いつも突っ走って…)
「………」
 いうべき言葉を失って、ティナはとうとう下を向いて黙り込んだ。
 カイオス・レリュードも、変わらず沈黙を保っている。
 不気味な気配が忍び寄る一方で、清廉な水の漂う静謐な沈黙に包まれた空間の奇妙な静けさが、感情が入り乱れてぐちゃぐちゃに乱れたティナの思考を、ほんの少し緩めたようだった。
(そもそも彼、何でこんな冷静なのよ)
 今の状態で七君主と戦って、勝てる見込みなんてないのに。
 そのことに思い至ったとき、静かな水面に投げ込まれた石がぽちゃんと波紋を立てるように――古代図書館に行く前、カイオス・レリュードが呟いた言葉を、ティナはふと思い出した。
 お前、そんなだといつか襲われるぞ、だとか何とか。
(なに、じゃああの言葉は、七君主の襲来を、本当に予期してたってこと…)
 一瞬でも、『別の意味』だと勘違いしてぐるぐる悩んでした自分が、バカみたいだ。
 そうと分かってみたら余計気が抜けて、苦笑にも自嘲にも似た力のない笑みが口元に上った。
(全部…分かってたんだ…ぜんぶ…)
 感情に任せて流れていた涙も、いつの間にか止まっていっている。
 それ以上何も考えられなくてぼんやりと視線を上げると、こちらを静かに見つめている青の視線とかち合った。
「そろそろ、本当に時間がないぞ」
「…」
 ティナが落ち着くのを待っていたのだろう。
 背中を押すような調子で投げかけられたその言葉を、彼女は空っぽの心持ちで受け止めた。泣きつかれた子供が、手足を投げ出して降参する、というのはこういう心地なのかもしれない。
「ねえ、ひとつだけいい?」
「…」
 青の目が、微かに問いかけるような色を帯びた。
 胸中には様々な思いが渦巻いていて、自分でもうまく言い表すことができない。だが、ほんの一欠けらでも相手に伝わればいい――。
 空っぽの心にぽつりと浮かんだ言葉を、ティナは、問いかけるというよりは、問いただすように告げた。
「あんた、本当はこうなること…――七君主がもう一度現れるってこと、知ってたんじゃないの?」
「何を…」
「全部覚悟の上で…この場所に来たんじゃないの。だったら一言くらい、事前に相談してくれたって」
「そんなわけ」
「あんたは」
 頑なに否定しようとする態度が煮え切らなくて、ティナは声を高めた。
 青の目を、怪訝そうな表情を、真っ向から見つめる。
「残していく側の気持ちなんて…っ、分からないでしょ…!」
 最初から覚悟ができている者は、――思いを託していく者は、ずるい。
 それは、眼前の青年に対する思いだけではないことに、ティナは不意に気づいた。
 空っぽだった心の中を、いつの間にか満たしている思い。
 フェイを助けると言い置いて、不死鳥の前に身を躍らせたレイザ。
 満身創痍の身体でストラジェスの神具をティナに託し、自らは足止めに残ったシェキア。
 ずっと心に溜まっていた思い。二人にも言いたかった言葉を、気持ちを――今こんなところでカイオス・レリュードに対してぶつけようとしている。
「ティナ」
 案の定、カイオスは持て余したように眉をひそめている。
 だが再び昂ぶってきた想いは、そう簡単に止めることはできなかった。
 溢れた涙が再び頬を伝って、ティナは顔を伏せた。
「ずるい…全部、分かってて…最初から…」
「だから」
 青年がこちらに手を伸ばしかけたような気配がしたが、触れては来ない。
 透明な水に沈んだ自分の手の甲を見つけながら、ティナは唇をかみ締めて、搾り出すように叩きつけた。
「だって…っ、あんた言ったじゃない! 宿屋で! そんなじゃ襲われるって!」
 しん、と沈黙が落ちた。
 水がさやさやと湧き出る音がする。
 どす黒い、七君主の気配が徐々に近づいてくる。
 もう答えを出さなければならない。
 顔を上げようとしたティナは、その時不可思議な音を聞いた。
「…は?」
 不意を突かれて思わず出てしまった、としか言いようのない、無防備な音だった。
 あまりに場違いな反応に、肩透かしを食らった心地で顔を上げると、カイオス・レリュードがまさに『呆然とした』表情をして、こちらを見つめていた。
「なんで、お前…それ知って…」
「え…いや、あの…」
「………」
 数秒間、まじまじと。
 思い切り正面から顔を覗き込まれて、ティナは困惑した。
 何もできずに固まっていると、我慢比べでもするように、なおもじーっと覗き込まれる。
 まるで目の奥にあるティナの真意を、注意深く探るように。
「っ…」
 逃げるわけにもいかず、ティナは視線を真っ向から受け止める。
 しゃくりあげる息まで止めて、何度もぱちぱち瞬いていると、突然相手が顔を背けた。
(え?)
 と思ったら、次の瞬間、低い声が漏れ出した。
(…は?)
 そんな場合じゃないのに、という思いが完全に消し飛んで、ティナは目の前で起こっている光景に、心すべてを奪われてしまった。
 普段、押しても突いても冷静な態度を崩さないカイオス・レリュードが、くつくつと声を立てて可笑しそうに笑っている。
 いつも見ているのが大人びた表情であるせいか、なおさら今の彼は、少年の面影を残した――ティナとあまり年の変わらない、年相応の青年に見えた。
 今まで決して見ることのなかった、その人の飾らない素顔。
 それは、ティナの瞳を介して、彼女の中に深く焼きついていった。
 彼女自身が、もう無視できないほど奥深くまで、深く、強く。
「な、何よ…」
 呆然とした、というより、狼狽した、といった方が正しいのか。
 へたりこんだティナを、カイオス・レリュードは改めてまじまじと見つめると、苦笑いにも似た仕種で、柔らかく相好を崩した。
 泣いている子供をあやすように、軽く頭をぽんと叩かれる。
「お前、そんなんじゃいつか襲われるぞ」
 からかわれるように言われて、ティナはようやくいつもの感じを取り戻した。
「な! 失礼な!」
 動かされてしまった心のうちを隠すように、意地になって睨み付けるように見つめ返してやると、青年はふっと一息つくと、ぎこちない仕種で立ち上がった。
「行くぞ。時間がない」
「…え」
「行くところまでは行かないと、納得しないからな。お前は」
「………」
 さきほど青年からあふれ出した感情の奔流は嘘のようになりをひそめ、そこには普段の平静な態度がある。
 だが、先ほどと何か違うように感じるのは、そこにあるのが『何かを決めてしまった』覚悟ではなく、『腹を決めた』開き直りに見えるからか。
 歩きにくそうなカイオス・レリュードをとっさに支えながら、二人は部屋にしつらえられた祭壇の前まで来た。
『汝、光になれ』。
 古代語で書かれた言葉と、向こう側が全く映らない大きな鏡。
 ほんの少し前にティナが一人で様子を見に来たときと、まったく変わらないたたずまいだ。
「『光になれ』って言われてもねー。正直、何のことよって感じよね。まあ、わかりやすく道しるべがついてるから、そーゆーことなんだろうけど」
 壁面をずっと登ったところにある天上の『光』を仰ぎながら、ティナは唇を尖らせる。
 やはりここを伝い登るしか、選択肢は残されていないのか。
 今まで、自分の読解力に頼ってここまで来たが、ひょっとすると途中で道を間違った可能性もある。
「いったん引き返してみる?」
「いまさらか?」
「だって、どー見ても行き止まりなんだもん」
「確かに、お前の方向感覚で、ここまでの道が正しい保証はないな」
「…あんた、さっきから一言多いわよ」
「…」
 唇を尖らせて睨み付けたその先で、カイオスは茶化すような言葉と裏腹に、じっと古代文字の刻まれた壁面を見つめていた。
 おそらくそれはないと思う、と何気なく伝えられた言葉に、ティナはえっと顔を上げる。
「道は間違っていない。曲りなりにストラジェスの神具の防衛機能を果たす場所だぞ」
「そうね…」
「それよりも、この部屋に入ったときから、妙な違和感が…」
「?」
 思案するように言い掛けた言葉がすべて吐き出される前に、背後で強大な魔力が膨れ上がる気配がした。
「!」
「…」
 思わず同時に振り返った二対の視線の先で、どす黒い瘴気に似た魔力が、霧が流れるように漏れ出しているのを感じる。
 この部屋は行き止まりだ。
袋小路の鼠を追い詰める余裕か、ひたりひたりと通路を一歩ずつ忍び寄ってくる感覚が、背筋を付けたい手で撫でられたように這い登ってきた。
 あくまで甚振るように、一歩一歩、ゆっくりと。
「来た…」
 ティナは、反射的に壁面を見た。
 それから、自分が身体を支えるカイオス・レリュードを見た。
 はちきれそうな焦燥感が、敵が近づいてきた緊張感とともに、どくどくと全身を巡った。
 シェキアが託してくれたストラジェスの神具を、何としても護らなければならない。
 自分ひとりでは、絶対に先に行きたくない。
 異なる思いが手足を縛って、硬直したようにそこから動けなくなってしまった。
(どうしよう…)
 それは遠い記憶の中で、ストラジェスを殺すか殺さないかの葛藤で揺れた感覚にとてもよく似ていた。
 自分はあのときから何も変わってないのか――。
 悔しさとやるせなさで体が震える。
 自分の中の感情に捕らわれていて、だから始め、すぐ傍で声がすることにも気づかなかった。
「…ナ。ティナ」
「あ…」
 自分は一人でなかったんだった。
 気が抜けたように見上げる先で、青年は落ち着き払った態度で、壁面の古代文字を指す。
「これ。『汝』と『光』の間に、何か書いてないか?」
「え?」
「左から2番目の文字」
 この状況で何を言い出すのか図りあぐねて、一瞬呆けたように思考が止まるが、カイオス・レリュードはあくまで真剣な表情でこちらを見つめていた。
 彼も、ティナほどではないが古代文字の知識があるのだろう。文章の構造も、『汝』『光』『なれ』と、単語が並んでいるだけの、至極簡単なものだ。
 その至極簡単な配列の中に、現在の文法上、完全に使われなくなってしまった記号があるのを、見て取ったらしい。
 この場面にあって、そんなことを聞いてくるのは、何かよほどの意図があるのだろうか。
「別に文字自体に意味はないわよ。この文字の前と後ろが、本質的に等しいモノであることを示すってだけで」
「等しい…」
「つまりコレを正確に訳すと、『お前たちは光という存在になれ』って感じになるのかしら。でも、それだと余計意味が全然…」
「…分かった」
「え?」
 思わずそちらを見ると、その先で青年は不意に笑ってみせた。
 それは、難しいパズルを解き明かした子供が見せる、得意げな表情を思わせた。
「ここを出るぞ」
「へ?」
 首をかしげるティナの前で、彼は魔法の詠唱を始めた。
 ティナにはすぐに、彼が何を唱えているのか分かった。だが、同時に首を傾げた。
 それは魔道師の卵が最初に習う、あまりに簡易な初級魔術だった。
(何を…)
 一方で、彼女の耳は青年の唱える詠唱以外の音を鋭く拾った。
 水の跳ねる微かな音。
 魔力の波動ではない、実体を持った者の立てる、物理的な足音。
(来る…)
 後、何歩の距離だろうか。
 水をかきわけながら、恐ろしくゆっくりとこちらへ近づいてくる。
 振り向いたティナの視界に、人影が石段を上ってくる姿がはっきりと見えた。
 手に何か握り締めている。
 ぱっと見ただけでは、すぐには分からなかった。
 細く長い糸を、何本も何百本も束ねたようなモノ。
 それは、通路の奥につながり、その先にある『何か』を引きずっているように見えた。
(まさか)
 ソレが何であるのか。
 とっさに浮かんだ一つの可能性に、全身の毛があわ立つような感じがして、ティナは無意識に震える。
 ストラジェスが、また一歩踏み出す。
 その手の先にあるモノが、ずるりと引きずられて姿を現す――カイオス・レリュードの呪文が完成したのは、まさにその時だった。

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