Lost Words
    神は始め、天地を創造された。「光あれ。」――こうして、光があった。
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  第七章 悲しき英雄  
* * *
 ストラジェスが、その部屋に一歩踏み入れるその直前の瞬間、光が部屋全体をかっと満たした。
 それは、単なる目くらまし以上の意味持っているようには思われなかった。
 子供だましの、時間稼ぎか。
 英雄は、落ち着き払った仕種で、優雅に首を巡らせる。
 光の奔流は一瞬、視界が回復した後、彼は眉をひそめた。
 三方を壁に囲まれた石部屋、その一方にしつらえられた祭壇。
 しかしそこに先ほどまで確かにあった、ティアーナの気配が忽然と消えていた。
「逃げられたか…」
 英雄は低く呟く。
 ふと右手に掴んで、ここまで引きずってきたモノを見た。
 まだ生きているだろうか。
 決死の思いで守ろうとした姉を、その目の前で自分のモノだと分からせてやらなければ、腹の虫が収まらない…。
「ティアーナ」
彼女の存在の残滓を求めるように、彼は水の張った部屋を音を立てて歩み、ふと銀の鏡を覗き込んだ。


「ぷはっ!」
 水面から顔を出して、ティナは大きく息を吐いた。
 部屋が光に満たされた瞬間、何も映らなかった祭壇の鏡にすうっと取り込まれるように、身体が宙に浮いたような感覚がした。
 引きずり込まれる――そう感じた次の瞬間には、水の中に居た。
 おぼれる、と思ったのはその瞬間だけで、ほとんど水面に近いところにいたようで、泳ぐのが不得手なティナも大して苦労もなく水面に上がることができた。
 すぐ傍で、カイオスも同様に水面に顔を出し、水槽の縁に手をかけて濡れた髪をかきあげている。
 足を怪我していながら溺れずに済んだのは、彼も水面近くに居たためだろうか。
「ここ…」
「浮かばずの水路」
「へ?」
「さっき古代図書館に入る前に通っただろう」
「ああ…」
 古代図書館の外壁に備え付けられていた、『底なし沼』か。
 まさか、ここが地下迷宮の出口になっていたとは。
 過って落ちた学生が二度と浮かんでこなかった、という話をしたことが、遠い出来事にようにティナの胸によぎった。
 先ほどと空気の色はさほど変わっていないようにも見えるのに、長い長い時間を経て帰ってきたような感覚だった。
 あの時はまだ、自分は記憶すら取り戻していなかった。
 シェキアのこと、ストラジェスのこと、神具のこと。
 胸中に到来したさまざまな思いをもてあまして、ティナは暮れ行く空を見上げる。
 黄昏が近いのか、どこか黄色に染まった蒼い空気が、幻想的に古代図書館を照らしていた。
 木々を揺らす風が心地い音を奏でている。
 外に出られたんだ。
 濡れて重くまとわりついてくる服に閉口しながら水路から上がったティナは、続いて負傷したカイオスが水から出るのを手伝った。
 それはかなりの重労働で、二人して水から上がった頃には、へたりこんで暫く立ち上がれなかった。
 古代図書館の周囲には人気はない。
 だが、何人かの学生と思しき人影が、こちらを伺うような目でちらちらと見ている。
 今は奇異なモノを見るかのようなそんな視線よりも、自分たち以外の人が周囲に確かにいることが――元通りの場所に帰って来られたことが嬉しかった。
 だが、一方で問題もある。
「七君主は、ここまで追いかけて来ないかしら?」
 すぐにでも仰向けに倒れて眠ってしまいたい――そんな葛藤と戦いながら、ティナは重く切り出す。
 対するカイオスの返答は、さあな、とどこまでも平静でそっけないものだった。
「さあ、って…」
「ただ、ストラジェスは古代図書館に入る前に俺たちと会っている。その時には何も手出しをして来なかった。ということは、街中では仕掛けてこない可能性が高い、とは考えられるな」
「…そんな適当でいいの?」
「今までも、いつ仕掛けてくるか分からない天災みたいなものだったしな。不用意に身構えても仕方ない」
「その割に、今まで相当ぴりぴりしてたように見えたけど?」
 勢いで言ってしまって、あ、と思ったときには遅い。
 不用意に触れてはいけない部分に触れてしまった、と後悔したのも束の間で、青年は何事もないようにそっけなく答えた。
「まあ、今まではな」
 ということは、今からは違う、ということなのだろうか。それはつまり、どういうことを意味するのだろうか。
 告げるに告げられず、ティナはうーん、と黙り込んだ。
 黙り込んだ結果、不器用に話題を変える。
「そ、その…ところで! さっきあんたが使った魔法なんだけど」
「ああ」
「単なる目くらましの光の呪文だったじゃない」
「そうだな」
「…どういうこと?」
 問いかけると、カイオスは何事もないようにさらりと答えた。
「影を消すには光、だろ」
「はあ?」
 問いかけに、なぞなぞで答えられた気分だ。
 ティナの表情を見て一つ息をつくと、カイオスは肩をすくめてみせた。
「あの部屋には、影がなかったんだ」
「えっと…確かに鏡には何も映ってなかったけど…?」
「ああ。それだけじゃなくて、水面にも何も映ってなかった。最初から、妙な違和感は、あったんだよな」
「へえ…」
 さすがは時間と空間が歪んだ古代図書館の地下だ。存在までも歪んでいたということか。
 しかしそんなこと、よく気づいたものだ。
 というより、ティナのほうに余裕がなくて気づけなかっただけなのか。
「じゃあ、『汝、光になれ』ってのは…」
「ああ。どういう原理だか分からないが、あの部屋では、光と影が逆転していた。つまり俺たちが『実体』と思ってたのは、影の方だった、と考えられる」
「で、影を消すには光ってわけ、ね」
「そういうことだな」
 『汝、光になれ』。
 ティナはそれを、光の方向に上っていけ、ということだと解釈したが、実際は『光』――つまり、影を消して実体を取り戻せ、という意味だったのか。
 そう考えれば、『汝は光という存在になれ』という直訳の意味していたところも、納得がいく。
 種が明かされれば、まさに『子供だまし』の内容だが、あの状況でその可能性をひねり出して、間一髪脱出できたのは、やはりカイオス・レリュードの冷静な分析能力のおかげだろう。
「結局あんたがいないと、どーにもなんないのね」
 とほほ、という気分でティナはひとりごちた。
 今回は、自分のせいで相手が負傷した、という負い目もあって、せめて自分がなんとかしなければと意気込んだ部分もあったが、結果的にはティナの力ではあの迷宮は脱出できなかった。
 そう、神具を護るという使命と、自分ひとりでは先に進めないという葛藤の間で、ストラジェスがいよいよ迫り来たとき、確かに自分は考えることを放棄した。もっと端的に言えば――あきらめてしまった。
 あきらめずに、最後まで脱出方法を考え抜き、実際出口に導いたのは、カイオス・レリュードだ。
「…そうでもない、と思うぞ」
「へ?」
 思いがけない言葉に、ティナは相手を見る。
 カイオスは、平静な表情でこちらを見ていた。
 何かを言いかけて、いったん止めると、視線を緩めて口の端を微かに上げた。
「ありがとう。色々助かった」
「!」
 それは、単に世話になった感謝を伝える以上のものではないはずなのに、受け取るティナの感情を激しく揺り動かした。
 今までどこか気づきながらも、蓋をしてきた自分の想い。
 それが、地下迷宮で一瞬見た青年の素顔と重なって、ティナは、思わず顔を背けた。
「別に、私はたいしたこと、してないわよ…」
 精一杯の強がりは、彼女が覚悟した以上に言い訳がましく、あまりに弱々しかった。
 もう逃げられないところまで追い詰められていながら、なおも悪あがきするように、相手から視線をはずしたまま、すっと立ち上がる。
「そろそろ行きましょ。…立てる?」
「ああ。…いや」
 精一杯普通どおりを装っていても、どうしても視線を合わせることができなかった。
 相手の目を見ると、何か重大なことが終わってしまう予感さえした。
 カイオスは、視線を合わせられないティナを、座り込んだまま上目で見ているようだった。
 責められているわけではないのに、その視線の先にいることが、たまらなく苦しい。
 逃げたいのに逃げることの出来ない葛藤の中で、ティナは今度こそ、身動きが取れなかった。
「頼む」
「…え?」
 不意に、聞こえた予想外の言葉に、彼女は地面を向いていた視線をほんの少し戻す。
 カイオス・レリュードは、いつも通りの透明な視線で、だが、今までにない気安さを微かに滲ませて、軽く息を吐いた。
「肩くらい、いつでも貸してもらえるんだろ?」
「…あ」
 自然、相手から差し出された手を、ティナはどこか信じられない光景を見つめる心持ちで受け止めていた。
 今までは、ティナが一方的に彼を引っ張ってきた。
 だが今は、彼は自分から手を差し出している。
 なんでもないことのはずなのに、胸をどんと突かれたように鼓動が高鳴った。
 その手を握ったとき、恐る恐るその体温に触れたとき、ついに彼女は観念した。
(私…彼のことが好きなんだ)
 触れることが嬉しい。
 手を差し出してくれることが嬉しい。
 不意に覗く素顔を見ることが嬉しい。
 誰よりも一番近くにいたい。
 ずっと、一緒にいたい。
(好きなんだ…)
 いつからその気持ちがあったのか、いつの間にこんなに強いものになってしまったのか、ティナ自身にも分からなかった。
 ただ、色々な出来事が起こる中で、そのことに気づいたとき、何かが解放されるような、泣きたいような気持ちが激しく湧き上がってきた。
 それは、かつてストラジェスを好いていたときとは全く異質の、まさに『胸が震えるような』感情だった。
(なんてヒト、好きになってんのよ…)
 一方で、とほほという心持ちも湧き上がってきて、ティナは内心苦笑する。
 相手は、立場上一国を任される左大臣。
 旅が終われば、平民のティナとは、縁もゆかりもない雲の上の人間に戻ってしまう。
 それに自分は、何年経っても外見の変わらない『不死鳥憑きの巫女』だ。
 世間は天使を宿した混血児を、化け物呼ばわりして蔑むが、自分は本物の『バケモノ』の類だ。
 誰かを好きになっても、どーしようもないものを。
(バカよねぇ…)
 一方で、触れた手から伝わる体温は、やさしい幸福感を湧き上がらせる。
 切なさとあきらめとをかみ締めながら、ティナはきゅっと相手の手を握り返した。
 そこにあるのは迷いではなく、自らの思いを抱きしめて前に進む、覚悟にも似た決意だった。


「ティアーナ…」
 水のたゆたう石部屋で、ストラジェスはその鏡の映し出す情景をじっと見つめていた。
 鏡の向こうは現実世界に通じているのか、水鏡を通して不死鳥憑きの巫女の様子が克明に描き出されている。
 彼女が連れの男と話をする素振り、その中で見せる素顔、それはストラジェスが見たことのない『ありのままの姿』だった。
 かつて、自分を愛したと語った女が、決して自分に見せたことのない――。
「いい、気味だな…英雄」
 水の中、長い髪を掴んで引きずってきた瀕死のシェキア・リアーゼが、口の端を引きつらせて嘲笑する。
 自らを巻き込んだ大爆発からストラジェスが逃れられたのは、ひとえに同化した七君主の空間魔法の賜物だ。
 自爆した無様なシェキアを、腹の底からあざけって、その目の前でティアーナを奪うために、ここまで引きずってきたのだ。
 ごほり、と咳き込んで血塊を吐き出しながら、かりそめの巫女は、愉快そうに続けた。
「お前、が…道を踏み外してまで、愛した…女性は、お前、の方など…見てはいない…」
「…だまれ…」
「最初、から…そうだった、んだよ…英雄…。お前は、…一人で、空しく…ひとり、で…」
「だまれ、だまれだまれだまれだまれ、黙れ!!」
 シェキアの頭を、力任せに石畳に叩きつけて、英雄は激昂した。
 かりそめの巫女の頭から新たに血が噴出し、透明な水に溶けてゆるゆると流れ出していく。
 沈黙した少年の前で、英雄は頭をかきむしって天を仰いだ。
 巫女の言葉は途切れたのに、英雄の耳は永遠にその言葉を拾って、ぐるぐると際限なくとめどなく繰り返す。

――最初から、そうだったんだよ。お前は、空しく一人で…――

「ちがう! 違う違う違う違う違う!! 僕は、ティアーナを愛している!! 彼女も僕を愛している!!」
 間違っているのは彼女のほうだ。
 僕は間違っていない。
 僕は、彼女のためにすべてを犠牲にして――。
「違う…! 違う違う! お前に何が分かる!? お前なんかに…彼女の何が…!!」
 つう、と透明な涙が英雄の頬を伝い、ストラジェスはそのまま水の中に崩れ落ちた。
「僕は…彼女を、守るために…ティアーナ…君だけを守るために…」
 ぽたり、ぽたりと際限なく涙は流れ出た。
 違う、違うと否定しても、シェキア・リアーゼの言葉は耳を離れず、際限なく頭の中に木霊が響きわたっていた。

――最初から、そうだったんだよ。お前は、空しく一人で…――

 ぽちゃん、と糸が切れたように、その手が水に投げ出された。
 しんとした静寂の中で、静謐な光が祝福するように降り注ぐ石部屋のなかで、ストラジェスはまるで懺悔をするように鏡の前にかしずいていた。
 耳にシェキアの幻聴を聴きながら、鏡の映し出すティアーナの表情をじーっと見つめていた。
「………」
 ふ、と吐息が漏れる。
 それはみるまに笑いの奔流となり、渦のように螺旋を描いてとめどなく溢れ出した。
「はは…ははは…! あはははは!!」
 笑いは水を震わせ、光を惑わせ、石部屋を駆け巡った。
 瞳から透明な涙を流しながら、ストラジェスは笑い続けた。
 狂気のように純粋な笑みを貼り付けて、悲しき英雄は笑い続けた。
 ひたすらに、笑い続けた。


「ケイン様!」
 夕闇が色の密度を増し、夜の空気がひんやりと街を漂う頃、エミアス・セントア・ブルグレアは、雑踏の中に捜し求めていた人影を見つけて、一目散に駆け寄った。
 今日び朝からこの方、祭りの喧騒の中をずっと走り回って探していた相手。
 道中の護衛がエミアスだけという、超個人的なお忍びの中で、その姿を見失ってしまったとあって、首が飛ぶ可能性も覚悟していた――安堵に体中の力が抜けかけながら、近くに寄った瞬間、彼はふっと胸の中に影がよぎったのを感じた。
「ケイン様…お召し物が…」
「ああ。ちょっと色々あってね」
 凡庸で、地味。
 先王の長子である、という事情だけで国王になったと揶揄される声が絶たないアクアヴェイル国王は、素行も質素で堅実なものだ。
 めったに羽目を外すことはないし、悪い言い方をすれば自分から動こうとする積極性がない――そんな彼が突然宿から姿を消しただけでも驚愕に値することなのに、よりによってその召し物が血のようなどす黒い液体で重々しく濡れている。
「お、お怪我は…!」
「大事無い。死に掛けた猫を見つけてね。かわいそうだから埋めてやっていたんだ」
「さようでございますか」
 ほっと息をつきながらも、エミアスはアクアヴェイル国王から感じる異様な雰囲気に、内心首を傾げていた。
 秘めやか、穏やか、理性的。
 普段はそういった言葉が似合う人物であるのに、現在の彼からは狂乱に身を焦がす炎のような雰囲気が身体の線を超えて立ち上っているように見える。
「ケイン様…」
「行くよ」
 投げかけた声にかぶさるように、国王が厳かに告げる音が、エミアスの二の句を封じた。
 立ち尽くす少年を置き去りにして、ケイン・カーティス・アクアヴェイルは重々しく歩き出す。
 その背中は、祭りに賑わう白の学院の雑踏の中にあって、不思議な存在感に満ち満ちていた。
 人に思わず身を投げ出させ、頭を下げさせてしまう類の、絶対的な素質。
「戦争だ」
 背中が語った短い言葉が何を意味するのか一瞬分からず、エミアスは狼狽した。
「は…」
「戦争だ。シェーレンとルーラを味方につける。一気に仕掛けるぞ」
「な!」
 お待ちください、と告げる先を封じるように、ケインは不意に振り返った。
 その眼光は、夜の闇に沈んだ街の中で、鮮やかに光を放ち、エミアスを影ごとその場に縫いとめた。
「思い知らせてやる。彼女は、僕のものだと」
「…」
 もはや何も告げることはできなかった。
 ただ立ち尽くすエミアスを、その雑踏を、夜の闇がゆるゆると覆い隠そうとしていた。

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