Lost Words
    神は始め、天地を創造された。「光あれ。」――こうして、光があった。
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  終章 
* * *
「ダグラス・セントア・ブルグレア殿!」
 その名を呼ばれて、壮年の男は礼服に包んだ身を優雅な所作で声の方に向けた。
 アクアヴェイル公国の首都アクア・ジェラード。
 アクアヴェイル人の端正な容貌が柔和に崩れ、理性的な深い声音が空気を厳かにさざめかせる。
「ミルガウスの太政大臣殿と――左大臣補佐殿ではありませんか」
「お初にお目にかかります」
 ミルガウスの太政大臣――エルガイズが、律儀に礼をとった。
 その男――ダグラス・セントア・ブルグレアにとっては、始めて見える男だった。エルガイズの出身――奴隷である、ということを考えればむしろ当然のことではあったが。
「お久しぶりです。その…お変わりなく」
 こちらは慇懃に頭を下げた左大臣補佐ダルスには、見覚えがあった。
 白の学院における『三賢者』――ダグラス・セントア・ブルグレア、ジーク・F・ドゥラン、バティーダ・ホーウェルンが去った後、――彼らの後継として名を挙れるよう求められたら、ダルスを推す者が多いだろう。もっとも彼の記憶の中にあるのは、神経質そうに法律書をめくっている子供の姿だったが――
(国を任される立場となったか…)
 彼らが今日この場にあるのは、アクアヴェイル公国とミルガウス国の休戦協定の確認――その他外交に関わる協議を行うためだ。
 アクアヴェイル国王が他国視察で不在の中、協議自体は明日執り行われることとなっている。
 今晩は懇親会も催され、顔を合わせる機会は作れるはずだが、二人がわざわざ彼の元を尋ねてきたのは、単に『親交を深めるため』ではないだろう。
(かれこれ10年以上になるからな…)
 自分が息子を失い、妻を失い、そしてアクアヴェイル国を遁走したのは。
「過ぎし日の者が、おめおめと戻ってまいりましたよ」
 視線を柔和に細めて告げると、二人の若者は身の置き場に困ったように視線を泳がせた。
 それは、ほんのささいな所作で、通常のものであれば気づかない程度の動きだったが、長年政治の中心で采配を振るっていた男は、赤子の手をひねるように簡単にその心中に気づいた。
 10年前に遁走したダグラス・セントア・ブルグレア。
 突如舞い戻り、一月と経たず瞬く間にアクアヴェイル公国の王宮を掌握してみせたその男の真意を、二人は図ろうと試み、そして図りきれず持て余している。
 そう、ダグラス・セントア・ブルグレアが再びアクアヴェイルに戻った、という事実すら、自国の民でさえ大半は知らない。
 二人がわざわざ彼の元を訪れたのは、その『噂』の真偽を――目的を、その目で確かめるためだろう。
 そして、噂どおりの『真実』を目の当たりにして、次なる行動がとれずうろたえている。
(まだまだ…若い)
 そんな二人をどこか微笑ましく見守っている自分があった。
 ダグラス・セントア・ブルグレア自身、若年の時代はあったからだ。
 何かに追い立てられるように――急くように生き急いだ時間。
 それがひと時過ぎてみれば、まるで子を見守る親の境地に達するのは、自身が年を取ったのか、様々な経験の中で、彼自身の考えが改められたためか。
(だがそれと国益とは、また別)
 彼は、若輩の二人を見守る視線のまま、胸中思案をめぐらせた。
 ダグラス・セントア・ブルグレアがこの国を遁走したのは、七君主と契約し、死んだ息子を『蘇らせるため』。
 そして、彼がこの国に帰ってきたのは、七君主の支配を解かれ、彼自身の目的を達するためだった。
 そのために――
(私は七君主と再び契約した――)
 ほの昏い葛藤が、ダグラス・セントア・ブルグレアの胸中を苦く焦がす。
 二人の若者に気取られないよう意識を分散させながら、そのときのことを――七君主と再び契約を交わしたときのことをかみ締めた。
 わが息子、カイオス・レリュードを殺せ、と。
 自らの口で、一言一句はっきりと述べたそのときのことを。
(もう…後戻りはできない)
 彼は穏やかな視線のまま、こちらを伺うように見つめる二人の若者を柔らかく見つめた。
 彼らに自分がもたらしてしまうであろうもの――そのことに思いを馳せつつ、旧知の人間に手を振るような自然な所作で、ゆるりと右手を挙げた。
「!?」
 エルガイズとダルス。
 二人の若者の表情が、天から地へ叩きつけられたように一変する。
 乱雑な足音。
 耳障りな金属音。
 ダグラス・セントア・ブルグレアの合図により、物陰に配置していた兵がいっせいに二人を取り囲む。
 十数の剣に脅されて身動き適わない若年たちが問いかけるような視線でにらみつける様を、ダグラスはどこか哀れむように睥睨した。
「お二人とは、常々話をしたいと思っておりました。ゆっくりと。誰はばかることなく」
「お気を触れられたか。このようなことをすれば――」
「このようなことをすれば、何です?」
 何かを訴えかけようとしたエルガイズの唇が、無為を悟ったかのようにぎりりとかみ締められた。
 彼には伝わったのだろう――ダグラス・セントア・ブルグレアが、気の触れているわけではないこと。そして、本気でミルガウスと事を構えようとしている覚悟を――。
「狭い宮中ですが、どうぞごゆるりと滞在いただきますよう」
 物事を仕掛けるには、いくつかの押さえるべき『時期』がある。
 天の時。地の利。人の和。
 天の時――他国への根回しはすでに大方終え、ルーラ国とシェーレン国が味方につく算段となった。
 地の利――ミルガウスとゼルリアは、第一大陸中央部から北方にかけて領土を持つ。それを取り囲む形でアクアヴェイル、ルーラ、シェーレンが連携をとり陣を張れば、向こうを追い詰めることはたやすい。
 そして人の和――ダグラス・セントア・ブルグレア自身のアクアヴェイル公国への帰還。
 彼のかつての栄光の元に、人々は諸手をあげて集い、王城内の空気を一つとした。
 そしてそれらが整った上での――迅速な奇襲。
 こういった勝負事は、相手の不意をついた方がより有利に事を運ぶことが出来る。
(かつてゼルリア・ミルガウスの戦争を講和へこぎつけた人間と、実質国の政治の中枢を担っている人間。これを押さえられて、果たしてドゥレヴァ殿はどう出るか)
 そして若き『ミルガウスの左大臣』。
「丁重にお連れしろ」
 二人に剣を突きつけたまま、大人数の足音が遠ざかっていく。
 たそがれるように一人佇むダグラス・セントア・ブルグレアの元に、部下の一人が駆け寄ってきた。
 耳打ちされたのは、アクアヴェイル国王の帰還。
 白の学院を発ち、エミアス・セントア・ブルグレアと共に、帰路へついたらしい。
「そうか」
 ダグラス・セントア・ブルグレアは一つ頷いた。
 名臣は、物事の成り行きを天から見渡す鳥のごとく、超然と言い放った。
「国王にお伝えせよ。準備、万事整っている、と」
「は」
 一つ頭を下げ部下は迷いない足取りで離れていく。
 それをどこか空しい境地で、ダグラスは見送った。
 男が王宮を去って十数年。
 突然帰還し政権を掌握したダグラスに異を唱える者もなければ、戦争の断行を固持しミルガウスの使者を捕らえよとの命令に疑問を抱く者もない。
 少なくとも――表立って意見する者はいなかった。
 彼らは皆、かつて辣腕を発揮した『名臣』をこぞって受け入れているように見えた。
 彼の養子であり、実質ブルグレア家を正式に継承する人間である、エミアス・セントア・ブルグレアでさえ。
「これがアクアヴェイル、か」
 呟きは空しく響き、閑散と王城にこだましていった。
 答える声はない。
 ただ、男は一つ首を振ると、湖面のように静かな目で、じっと行く先を――その先に待つ未来を見据えた。


「やだー、これ砂嵐来ちゃうかな〜」
 軽薄なアクアヴェイル人――と愛想のないアクアヴェイル人からため息をつかれるその男は、飄々と白の学院から砂漠を渡り、第三大陸中心都市シェーレン国を目指していた。
 今日もぴょんと飛び出た七色の羽が、極彩色の光を放ちながら、そよそよ風になびいている。
 雲の流れが速い。風がびゅうびゅうと吹き付け、砂が不穏な音を立てながら吹き上げられていく。
 獣が唸り声を上げているようだ。
 あるいは、砂漠で野垂れ死んだ死者が、怨詛の念を募らせているのか。
「間に合うかなー」
 男は、そんな不穏な雲ゆきの中で、ひょいと気安げに視線をあげた。
 流れる雲を見つめる視線は、不確かな荒れ模様を映しこみながら、どこか他人事のように達観した境地も覗かせている。
 竜巻の渦中にいながら、どこまでも状況を冷静に観察し続けられる傍観者の目。
 それは男の歩んできた奇妙な人生の中で、自然身に付けられた技法のようなモノだった。
 流れる雲を見つめる人形のような目が、ぱちりと閉じて再び開くと、不意に人間のような目に変わる。
「あの男が、オレに頼みごとするなんてね」
 どこか楽しそうに彼は呟いた。
 本心から、男は今自分が喜んでいるのだと感じた。
「張り切っちゃうよね、うん」
 提示された『依頼』は、彼をもってしても決してたやすくこなせる内容ではない。
 だが、あの男との約束を見事遂行した暁には、目のくらむような『ご褒美』が待っている。
 うーん、と一つ伸びをして、男はどこか不敵な表情で口の端を上げた。
「そろそろ本気だしていこっかな」
 そのとき、びゅわりと風が立った。遥か彼方――目指す先に小さな砂嵐が立ち昇った。
 彼は軽快な足取りでとんと一歩踏み出した。
 嵐に向かってためらいなく、男はざくざくと歩を進める。
 獣が牙を剥いて咆哮しているようにも聞こえる風の音の中、その足取りは大舞台に上がる役者が、拍手喝采を確信して光を浴びる、自信と栄光に満ち満ちているようにも見えた。


第二話 悲しき英雄 完
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