Lost Words
    神は始め、天地を創造された。「光あれ。」――こうして、光があった。
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  第二章 決意
* * *
「さて、アベルはうまくアルフェリアを説得できたかな〜」
 るんるんと廊下をわたりながら、クルスは鼻歌交じりにある部屋を目指していた。
 アベルにアルフェリアのことを依頼したのは、ほかならぬクルスだ。
 故郷の家族のことをほのめかして、話をしてみたら、とさりげなく告げると、アベルも『家族』に関しては思うところがあるのは予想どおりで、計算どおり快く引き受けてくれた。
 もちろん子供がそのような策を授けた、となれば後でいろいろとめんどうなことになるので、実際にはカイオス・レリュードがクルスを介してアベルを行かせたことにしよう、と勝手に決める。
 あのカイオス・レリュードであれば、うまく口裏を合わせるなり、さりげなく空気を読むなりするだろうと、これも勝手に決めてかかって、少年は無邪気に目的の扉に手をかけた――。


「失礼します」
 部屋の扉が再び開いたのは、先ほどの二人が部屋を出てから幾分もしないうちだった。
 控えめなノックの後、ふわりと黒い髪が流れて、その後ひょっこりと少女の顔が現れる。
 微妙な距離感にいる相手。自らの正体が知れてから、きちんと言葉を交わすのは初めてだ。
 部屋の中に踏み入れて、きょろきょろと室内を見回した目が、遠慮がちにこちらを見た。
「あの…ティナさんたちは…?」
「さきほど出て行きました」
「そう…ですか」
「彼らに、何か?」
「あの! アルフェリアさんが土の神剣を封じた場所に行くことを了承してくださったんです! だから話をしようと思って…」
「それは、よかったですね」
「あ…」
 少女は――アベルは落ちかなげに目を瞬かせた。
 急かすでも促すでもなく沈黙を続ける『混血児』を前に、少女は何かを言おうとし、言うか言うまいかの葛藤の中でしばらく沈黙の時が過ぎた。
 やがて、振り切ったように顔を上げた少女の口が、思いを爆発させたように開かれる。
「あの…、フェイお兄さま…!」
「アベル王女」
「!」
「私の羽を治してくださったのは、貴女だと伺いました。ありがとうございました」
 言葉の先を察して、機先を制するように告げると、勢いをそがれたように――まるで見えない刃に傷つけられたかのように、少女は悲しげに沈黙した。
「っ…」
「今まで貴女をだましていて、申し訳ありませんでした」
「だましていた、なんて…」
「あなたの捜し求めていた『フェイ王子』は、存在しなかった」
「違う、フェイお兄さまは、あなた…」
「私は海賊です。それに…アベル王女は混血児はお嫌いでしょう?」
「あ…」
 眼前の少女は、ほとんど泣きそうに見えた。
 幼いころ、手を引いて一緒に遊んだ妹。
 義兄スヴェルや義姉ソフィアよりも、自分に懐いてころころとうれしそうに笑っていた記憶が、ほんの少し胸のうちをさざめかせた。
「あなたは、ご自身の記憶が曖昧だったせいで『フェイ王子』を死に追いやったと悩んでいらっしゃいましたが、もうお気に病まれる必要はありませんね」
 波打つ記憶に絆されたせいか、次に口をついた言葉はどこか柔らかい響きを持って自身の耳を打った。
 しかしアベルは、先ほどよりも鋭い刃で傷つけられたかのように、唇を引き結んで沈黙した。
 小刻みに震えているようにも見えた。
 自らの言葉で妹が傷ついていることは、明らかだった。
 それでも、伝えなければならない言葉がある。
 彼女のために――そして、ミルガウス王国のために。
「今回のことでは、一介の海賊風情がお騒がせしました。この旅が終われば、もうお会いすることはないかと思いますが…どうか、お元気で」
 その言葉を放ったとき、泣きそうに歪んでいたアベルの視線が、はっとしたように、こちらを射抜いた。
 信じられないものを目にしたときの衝撃が、つぶらな瞳の中にありありと映りこんでいた。
「あなたは…王位継承を反故にするおつもりですか?」
「『反故にする』というのは、人聞きが悪い。もともと王になりたいと自ら名乗り出たわけではありません」
「ミルガウスの王位継承は神託によって定められている」
「さきほど、カイオス・レリュードとも話をしましたが…むざむざ国を荒らす結果になると分かって、王位に就こうなどとは思えませんね」
「ならば…あなた以外の誰が王位を継げる、と?」
「いるではないですか。正当なミルガウスの継承者。光の属性を持つ、貴女が」
「第一継承者であるあなたを差し置いて、王位になど就けません」
「でしたら」
 ゆるり、と胸に這いよった影のようなものが、口を借りてその言葉をつむいだような感覚を覚えた。
「貴女は私の羽を癒すべきではありませんでしたね」
 アベルは、一瞬虚を突かれたように押し黙った。
 その意を汲むのに時間を要しているようにも見えた。
 やがて、みるみるその目が見開かれていく。
 かすれた声が、沈黙の中か細く響く。
「わたしが…あなたを見殺しにすべきだった、と…おっしゃいますか…」
「そうしていれば、王位継承者は名実一人になったのに」
「な…!」
 訴えかける少女の感情を拒絶するように、沈黙とともに視線を逸らした。
 話は終わりだ、その意思表示でもあった。
「………」
 アベルはしばらく立ち尽くしていた。
 多感な時期の少女の胸に去来しているであろう、いくつもの感情の奔流と、必死で向かい合っているようにも見えた。
 しんとした静寂を、不意に低い声が破った。
「私は、あなたを軽蔑します、『副船長』さん」
 答える代わりに少女を見た、その先の視線は、賢王と呼ばれたドゥレヴァの血流を想起させるのに十分な強さを垣間見せてこちらを射抜いていた。
「あなたは王位に就くべきではありません」
「………」
「自らの身を大事にしない者に、国民を導く資格などない」
 まっすぐに相手を見抜く漆黒の瞳に、なおも沈黙を続けた。
 アベルはしばらくこちらを見つめていたが、やがてひっそりとため息をつくと、失礼しました、と呟いて部屋を出て行った。


「お、随分長かったな」
 部屋の外で待っていたアルフェリアが言いかけて、ぎょっとしたようにこちらを見たのが分かった。
 ティナとカイオスは残ってフェイと話しているはずだ、と一緒に部屋に赴き、話が終わるまでそのまま待っていてくれたのだ。
 二人はとっくに部屋を後にしていたみたいです、そう言わなければならないのに、口から伝うのはただの嗚咽だった。後から後から立ち上ってきて、しゃくりあげる息が言葉を奪う。
 私は、『おにいさま』を拒絶した。
 その言葉を相手に伝えてしまった事実が、今は何よりも苦しい。
「おい、どーした?」
 アルフェリアの掌が頭に乗せられて、その温かい重みを感じた瞬間、堰を切ったように頬を涙が伝っていた。
 わんわんと泣きながら、アルフェリアの腰にしがみついた。
 ドア越しに聞こえてしまわないように、服に顔を押し付けてひたすら泣いた。
「何があった?」
 途方に暮れたようにぽんぽんと頭を撫ぜるアルフェリアが、何か別のものに注意を奪われたように体をひねらせた。
「ロイド、エカチェリーナ」
「ちょっと、これはどういうことだい?」
「何だよアルフェリア、子供相手に怒って泣かせたのか〜大人げねーぞー?」
「ちげぇよ」
 狭い廊下ではなんだから、と大人たちに連れられて場所を移し、温かい飲み物を入れてもらう。
 体は温まっていくのに、心はぎこちなく凍えたままだった。
 やさしかった副船長さん。
 温かかったフェイお兄さま。
 ベリアルに囚われた闇の中で、『アリエル』と名前を呼んでくれた人が、昔のままの瞳で私を見つめてくれた人が、なぜあんなひどいことを言えるのだろう。
 どうして、彼は突然変わってしまったのだろう。
 それとも、私の言った『混血児を拒絶した』言葉が、いまだ相手の心を傷つけているのだろうか…。
 出口のない思いは渦となって滞り、三人がかりで慰めてもらっているのに、なかなか泣き止むことができなかった。


 扉を開けた先の部屋は薄暗かった。
 開け放ったドアの隙間から、廊下の光が四角く空間を切り取り、少年の影を長く浮かび上がらせる。
 まっすぐに部屋の奥を射抜いた黒い目が、ベッドに腰掛ける青年をすっと捉える。
 フェイとの話を終え、体調が優れずに眠ろうとしていたのかも知れない――だが、こちらの来訪を予期していたかのように、くつろいだ体でクルスを迎える視線は鋭く光を放っていた。
「怪我して具合が悪そうなとこ申し訳ないんだけど、ちょっと君に話したいことがあってさ」
「奇遇だな。俺もお前に聞きたいことがある」
 クルスは、口の端をかすかに上げた。
 カイオス・レリュードも、視線をどこか不敵に細めた。
 一字一句たがわず、互いの口から音が漏れた。
「ティナ・カルナウスについて」
 クルスは、にやりと笑った。
 後ろ手に扉を閉めると、闇が窓のない部屋の中を覆い隠す。
 それはまるで、先の見えない混沌を暗示しているように、少年には思えた。

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