少年と青年は、しばらく無音で互いをその視界にとどめていた。
そこに感情のやりとりはないようにも見えた。正確にいえば――クルス自身が、相手の感情を測りかねた、ということでしかなかったのだが。
(さすが…本気になると気迫が違うなぁ)
穏やかな相貌の裏で、クルスはのんびり思う。
底光りする青の目は、言葉より明確に持ち主の意思を冴え冴えと映し出している。こちらを子供と侮るのをやめ、完全に相対する構えだ。
一切の妥協をしない。
それはクルスがはぐらかしや偽りを述べることに対する牽制であり、カイオス・レリュード自身の己の言葉に対する覚悟の表れを示しているようにも見えた。
結局、クルスは自ら口を開いた。
「まず、君の話を聞こうかな」
ふい、と視線をゆるめ相手の言動を待つ。
対するカイオス・レリュードは、冴え冴えとした光を放つ双眸そのままに、言葉を放った。
「お前、『歪んでる』のに『歪んで見えない』存在のことを、どう思う?」
それは、問いかけの形をとった詰問だった。
クルスは敢えてはぐらかした。
「突然何言い出すの」
「フェイの目には、人間の持つ『気』が見えるそうだ。だが、お前のは見えないらしい。中身と外見の時間が乖離しすぎていて、時空が歪んでいる…と言ってたな」
「へぇ…」
「同じようなことを俺も言われた。本人であって、本人でない――その人間に必要な要素が絶対的に欠けている、と。そのために『気が薄くなっている』と言われた。つまり――歪んでいる者の『気』は、歪んで見える」
「至極まっとうな見解だね」
相手の言いたいことは、なんとなく見えた。
だが、クルスは乗らなかった。はぐらかしたのではない。
正確にいえば――その言葉を自ら口にするのが、怖かった。
「………」
カイオス・レリュードも、言葉を出し惜しむように流れを切った。
二者の間を時間がしばらく流れ、やがて溜息混じりにカイオス・レリュードは告げた。
「ティナ…――ティアーナ・カルナ・ティウスは、不死鳥憑きの巫女――外見上まったく年を取らず、百年前から存在している――人間としての時間がゆがめられた存在だ。にも関わらず、彼女の『気』は歪んでいない」
青年の言葉は、彼自身の推論から導き出される答えを、理を持って次々と白日のもとにさらしていく。
そこに迷いはないように見える。
立ち尽くすクルスの胸に去来する、さまざまな感情とは対照的に。
「歪んでいることが『正常である』存在。彼女は、何者だ?」
もしも逃げられるのならば。
今から相手に伝えなければならない事実を。
もしも口にすることから、逃げられるのならば。
(これじゃ、アニキに怒られるのも無理ないな…)
つい先日混血児の村で再会した兄の言葉。
『何を恐れとん?』
自分は、恐れている。
『せやかて、変らんのやで?』
未来は、誰にもわからないのに。
「…クルス」
相手が自分の名を呼んで、少年は顔をあげた。
いつの間にか逸らしていた視線は、心なしか温度をゆるめた青の視線をゆるゆるととらえた。当初あった底光りする気迫は消え、そこにはただ冴え冴えとした意思が宿っている。
悲しいほどに強い光。
「君は…『カイオス・レリュードであって、カイオス・レリュードでない』なんて言われておいて、ティナのことの方を気にしていたの?」
しんとした静寂の中に、囁くような言葉がぽつりと落ちた。
それは、はぐらかしでも、逃げでもなかった。
純粋な問いかけだった。
「…『闇』に追われているんでしょう? 属性の力を使いこなせず、満足に戦えない足で――ティナのことを気にかける余裕なんてあるの」
「確かに…」
「…え?」
「少し前なら、なかっただろうな」
「………」
完全に予想の外の言葉に、クルスはしばらく言葉の先を見つけられなかった。
青年が外面上変化したことは明白であっても、それを自ら口にするとは思えなかったからだ。
絶句するクルスを前に、カイオス・レリュードは、くつろいでいるとすら映る様子で、腕を組みなおした。
さも当然のことのように、
「状況が変われば、判断基準も優先順位も変わる」
「…状況はだいぶ悪化してると思うんだけど、ずいぶん楽観的だね」
「そうか?」
思いがけず、男は笑った。
苦笑にも似ていたが、そこに悪意も皮肉も一欠けらとしてない。
「アレントゥム自由市が崩壊した一件に比べれば、状況は必ずしも悪くなっているとは思えないんだが」
「君ともあろう人間が、よくそんな…」
「ティナが不死鳥憑きの巫女だった」
言いかけたクルスを、冷静な言葉と突きつけられるように立てられた青年の人差し指が制した。
紡がれる言葉に従って、次々に指の数が増えていく。
「ダグラス・セントア・ブルグレアに取りついていた七君主が、アクアヴェイル国王に移った。闇の石板はすべて集まったが、今度はストラジェスの神具が持ち去られた。土の神剣の力が不安定。ウェイがフェイ・アグネス・ウォンを襲いに来た――目下の懸念事項はこんなところか。だが多くは、もとからある事実や不明が判明したか、多少の形を変えて現れただけに過ぎない。闇は以前から暗躍しているし、土の神剣が不安定になったのは、黒き竜が暴走した10年も前のことで、今現在始まったことじゃない。もちろん、それを解決していく道筋を考えるのは、また別の話だが。
――だが」
綺麗に林立した指の向こうから、青い光が意味深くクルスをみる。
「………」
「お前は今すぐにも、町ひとつ滅び去ってしまいそうな顔をしている」
「!」
「さらにいえば…先ほど『ティナが記憶を取り戻した』と聞いた瞬間、完全に狼狽したのが傍目に見て取れた。すぐに取り繕ってはいたが――お前らしくもない」
青年の視線は揺らがず、情けなく立ち尽くすクルスを射抜くように見つめていた。
クルスは苦笑した。
相手に与える印象については、細心の注意を払っていたつもりだったのだが。
見事に相手に心の内をさらしてしまった自らの仮面の薄さと、さらすまいと抗ってつけた仮面の奥をあっさり見抜いた相手の洞察力の高さ。
いや――心情を見抜かれたのは、クルスの側に揺らぎがあったからだ。
ティナ・カルナウスが、記憶を取り戻しかけていること。
そして、『その意味するところ』を。
「俺は二度と町が滅びるのを見るのはごめんだ。その兆候を見過ごすこともな。今現在、表面に見えている現象の裏側で動いているものをもし知っているのなら――そして、それにティナ・カルナウスの存在が関与しているならば――。教えてくれないか? お前の知っている、『真実』を」
クルスは、不意に微笑みさえ浮かべそうになっている自分に気付いた。
ほっと肩の力を抜くと、今度は口に出して、思ったことを伝えた。
「やっぱり本気になると迫力が違うねぇ」
「からかってるのか?」
「誉めてるんだよ。今までは、あえて自分から事態を引っ張っていこうとはしなかったでしょ」
「………」
我ながら意地が悪いと思いつつ、浮かべた笑みをそのままに、クルスは穏やかにその話を切り出した。
「ティナは、僕のことを思い出した?」
「いや。そういう様子はなかったが」
「じゃあ、記憶を取り戻したとき、何か取り乱すそぶりをした?」
「特には」
「やっぱり、ね」
その話を切り出すことに、もはやためらいはなかった。
だがそれでも、相手に対して質さなければならないことがある。
「ひとつだけ、君に問いたい」
「…」
「自分が何者であるか確信が持てない者が、他人の境遇を背負う覚悟があるのかどうか」
ねえ『カイオス・レリュード』、と続けた言葉に、青年は初めて目を瞬かせるように視線を落とした。
今度は、クルスが相手を静かに待つ番だった。
だが、沈黙は長くなかった。
何かを思案するようにひとつ眼を閉じると、彼は再び顔をあげた。
その目に宿る光は変わらず、強い。
「言葉遊びだな。両者に因果関係はない。ただ…」
「ただ?」
「俺自身のことは、どちらにしても、いずれ答えが出る」
「………」
青年の口元は、かすかに笑っていた。
ただクルスの目には、泣いているように見えた。
目に見える物事の表層は、その裏側にある真実を知ることで、さまざまに意味を変える。
いや、眼前に在るただ一つの『事実』に、人はさまざまな解釈をもって『意義』を与えようとしているだけなのかも知れない。
静かに笑う青年の心情ひとつ――その表面を見つめるクルスには判然としない。
わかった、とだけ返して少年は口を開く。
今まで誰にも語られなかった物語。
不死鳥憑きの巫女の真実。
その深く悲しい物語を。
■
「入るぞ〜」
気易く扉を開けたロイドは、上体を起こして視線を手元に遣る混血児の姿を目にして、とっさに息をつめた。
あーあ、と溜息をつきたい心地で、彼は髪をぼりぼりと掻いた。
「………」
「アベルちゃん、泣いてたぞ」
「そう」
返ってきた返事は、予想通り冷たくそっけない。
その突き放すような調子は、ロイドにひとつの過去の情景を思い出させた。
冷たい雨の中、空を見上げて立ち尽くしていた姿――前の副船長、じーさんが亡くなったその日から、フェイは終始無言で三日もの間ただひたすら空を見つめ続けていた。
そして魂の抜けた蝋人形のように、感情を絶った。
(せっかく、笑うようになったってところだったのに)
その時のフェイは、何かに愕然としたように見えた。
それは、親しかった老人の旅立ちを悼むというよりは、目の前に突きつけられた『死』という事実そのものに対して、狼狽しているように見えた。その時仲間たちにできたのは、糸の切れた人形のように危うげな少女に、『副船長』という名前の居場所を与えることだけだった。
何かから逃げるようにローブの向こうに顔を隠した少女が、何に『おびえている』のか、ロイドには実のところよくわからない。
だが。
「せっかく妹と仲直りできるところだったのに」
「仲直り」
「そうだよ。アベルちゃん、お前にひどいこと言ってしまったから謝りたいって、ずっと傍に付いてたんだぞー」
「ふうん」
「…フェイ」
淡々と相槌を打つその仕草は、知らない人間が見れば、完全にこちらをバカにしている態度だ。
かたくなに視線を外すその傍らに、ロイドは静かに立つ。
「お前、どーしたんだよ」
「何が」
「じーさんの時も、今回のときも――なんかちょっと悪いことが起こると、すぐそーやって殻に閉じこもる」
「…」
「子供じゃねーんだからさ。むくれてヒトにあたっても、何も解決しないぞ」
「…関係ない」
「もうちょっと周りを信じて…」
「ロイドには、関係ない!」
「…っ」
不意に声に覇気がこもり、見えない剣となってロイドを打った。
さすがにひるんで口が止まった。
振り向いた藍色の瞳が、冴え冴えと敵意を剥き出しにして、ロイドを射抜いている。
こんな状況にも関わらず、ロイドは茫然と思った。
ああ、綺麗な眼だな。
「ロイドは、何もわかっていない」
「そーかぁ? 確かに、オレは頭はあんましよくないけどよぉ」
「そういう問題じゃない」
「どういう問題なんだ?」
「…っ」
少女は、忌々しげに唇を噛んだ。
意の通りにならないこちらに苛立っているのか。何かを言いかけて、結局フェイは口を閉ざした。
固く――かたく。
「…お前、何が怖いんだ」
「………」
「話してくれないか」
「………」
その投げかけをしてから、長い長い沈黙があった。
引き結んだ唇が、小刻みに動いている。
瞬きもせず、こちらを見据える藍色の眼は、心なしか潤んでいる様子さえある。
ロイドは、じっと待ち続けた。
頭の良さに自信はないが、根気の良さにはちょっと自信がある。
長い間見つめあっていると、ふと出会ったときのことを思い出した。
少女が海賊船に拾われてすぐのことだ。
人間に対して相当警戒心があったのか、がりがりに痩せきっていたのにご飯を食べてくれなかったので、口を開いてくれるまでじっと抱いて待ち続けた。
(あのときは、一週間くらいだったかなー)
こちらもほとんど飲まず食わずの耐久戦だった。
ついにスープを飲んでくれたときは、飛び上がりそうなほど嬉しかった。
何も入っていなかったからっぽの藍の眼に、一つ一つ感情が戻っていくのを見るのは、本当に嬉しかった。
今まで、ロイドの方から相手の境遇を尋ねたことはない。
シルヴェアの王子であったことも、石板が砕け散った責任を問われ、自ら崖から落ちてその後のことも――ぽつりぽつりと自ら話をしてくれた。
だが今回は。
(じーさんが逝っちまった時より、ヤバい顔してる…)
相手の内情に、必要以上に踏み込むべきではない。
それでもその問いを発したことは、ロイドにとって一つの『賭け』だった。
口を開くか、閉ざし続けるか。
仲間として信頼されているか、否か。
「…」
だから、その薄い唇がほころぶように開きかけたときは、柄にもなくほっとした。
無意識に緊張していたのか、こわばっていた肩の力を抜く。
「ロイド、俺…」
藍色の眼がこちらを見ている。だが、その次に続いた言葉に、ロイドは笑いかけたその表情ごと、すべての動作を止めた。
「船を降りようと思う」
時間が見えない氷に閉じ込められたように凍りつき、言葉さえも奪って冷たく降臨した。
ぎこちなく笑いかけた表情のまま、それでもロイドの視線はきれいな藍色の眼を吸い込まれるように見つめていた。
それは初めて出会った時に見た、一切の感情を排した美しい人形のそれだった。
■
「………」
クルスが語り終えたとき、部屋を満たす空気の色がまるで変わってしまったような感覚を、確かに覚えた。
それは、自らが誰にも明かしてこなかった『事実』を伝えたことによる安堵のためか、それを聞いた相手が多かれ少なかれ狼狽しているためか、分からなかったが。
「今の話は、本当のことなんだな」
「何が真実かは、人の主観によって変わる」
「…」
「これは、僕の考える真実だ。これを聞いて君がどう判断するのかは、君自身にゆだねられている」
長い間、他人と何かを分かち合った経験はなかった。
それだけに、どこか肩の荷が降りたような感覚が、クルスの表情を解きほぐしていた。
だが、一方でその『秘密』を共有する立場となった青年の心境を察するにどこか忍びない。
「…聞いたことを後悔している?」
「………」
カイオス・レリュードは、瞼を閉じた。
その仕草が意味する答えをクルスは持たなかった。
言葉としての答えを聞く前に、少年は再び口を開いた。
「とりあえず、話はこれで終わりだ。体、ゆっくり休めなよ。おやすみ」
どんな精神力が強い人間であっても、単純に時間が必要なときはある。
後ろ手にひらひらと手を振りながら、扉をくぐる。
振り向きはしなかった。
だから、青年がどのような表情で自分の背中を見送ったのか、――あるいは、その目を閉じたまま思索にふけっていたのか――クルスには分からなかった。
ぱたんと扉が閉まり、雪国の静謐な静けさが、思い出したように少年を包み込み、やさしくかき抱いた。
クルスは、不意に泣きそうになっている自分に気付いた。
それは、安堵のためか落胆のためか――自分自身よく分からなかった。
|