「寝てなくていいのかい? 左大臣」
「…」
物憂げな女の声がして、カイオス・レリュードは視線をそちらに遣った。
暖炉の炎がぱちぱちと音を立てて女の半面を照らしている。混血児の村長の家の居間は、10人弱が談笑するのに十分な広さを持っていたが、いま現在その空間を使っているのは青年一人だった。
ティナ、クルス、ロイド、そしてアルフェリアの四人は、土の神剣の元へ向かっているし、まだ起き上がれないフェイはともかく、アベルもなんとなくふさぎ込んでいた。
結果、それなりに広い屋敷に、あまり人気はない。
「別に」
そっけなく口にして、手にした書物に視線を落とす。
『魔封書』。
持ち主の知識に応じて、魔力を要求する代わりに膨大な知識を与える書物。
石板の所在を知るためにミルガウスの王城から持ち出した代物だったが、その後の状況の変化の中で、青年自身が求める『知識』も変わっていった。
といっても――『死者の蘇生法』や『不死鳥憑きの巫女』、『大空白時代』の内容を求めるにも、彼自身十分な知識を持つわけでもなく、時間つぶしの暇つぶしに、せめて何かしらの手掛かりをつかもうとする意図が強かったのだが。
「懐かしいもの、持ってるね」
「調べ物をしている」
「そんな本読んでちゃ、治るものも治らないよ」
「………」
カイオス・レリュードは、視線を再び女に遣った。
魔封書は、自らを開くものを選ぶ。
読み手以外の人間が触れれば容赦なく手を吹き飛ばすほどの魔力を放ち、その文章が人目に触れかねない状況――まさに今のように――第三者の出現によってさえ、その文字を閉ざしてしまう。
続きを読むには、エカチェリーナが視界から消えてくれるのが手っ取り早い。
暗にそうほのめかして紡いだ青年の言葉に対して、エカチェリーナは知ってか知らずか――おそらく知っているのだろうが――さらりとその本の持つ弊害を指摘してきた。
魔封書は、読み手に知識を与える。
膨大な魔力をささげる代わりに。
確かに、本を読み進めていては、体力の回復もおぼつかない。
「…何の用だ」
結局、本を閉じてそちらを向き直ったカイオス・レリュードに対して、女はわずかに苦笑してみせた。
物憂げに髪をかきあげながら、吐息に混ぜて呟く。
「七君主が自分を狙ってるってのに、随分と余裕そうだね」
「別に。苦し紛れにヤツを撃退できる方法を探していただけだ」
「どうだか」
ふっと微笑むと、女は向かいの椅子に腰をおろして、こちらをじっと見つめてきた。
何かを言いかけて、何かをためらっている。
それとなく促すと、彼女は何気ない風を努めながら、低く呟くように問うてきた。
「あんた、七君主を退けたことがあるんだよね。『二重魔方陣』を使って」
「ああ」
その件か、と続く言葉をにおわせながら、カイオスは視線を微かに相手から逸らした。
彼自身、いろいろな意味であまり思い出したくない経験だった。
ただ、眼前の女がためらいながらもその話題を持ち出した心情もよくわかる。
エカチェリーナ・ラクシス。
かつて、無属性継承者―属性魔法の恩恵を受けず、『サルまね魔術』と揶揄されることもある格下の魔法術の使い手―ながら、シルヴェア王国筆頭宮廷魔道士の地位に躍り出た『異民族』。
そして、白の学院付近の村にて、二重魔方陣を暴発させ、その栄光を全て失った。
くぼんだ目に宿る光は、どこか暗く淀んでいるような印象を受ける。
「私も自分なりに研究したんだけど、どうしてもその境地にはたどり着けなかった。あんたは、誰からどうやって魔法を学んだんだい?」
「…」
当然といえば当然のその問いに、カイオス・レリュードは束の間逡巡した。
結局正直なところを答える。
「ほとんど独学で」
一部、人をどこまでも不快にさせる本名不明の羽男にも戦術の一つとして習ったことはあったが。
「独学?」
「ああ」
怪訝そうにこちらを見つめる女を完全に視界の外に閉め出して、カイオス・レリュードはため息をついた。
「昔、時間だけがありあまって暇でしょうがなかった時期があったんだが」
「………」
「唯一できることが、部屋中にある本を読むことだった」
「ふーん」
「魔法理論に関する著書もかなりあったからな。後は、それをもとに実戦を繰り返していくうちに、適当に形になった」
「理論の習得と、実戦、か…」
逸らした視線を戻してみると、エカチェリーナは、何か考え込む風にじっと俯いている。
不意に興味が湧いて、彼は投げかけてみた。
「あなたの方は」
「私?」
「異民族の身で、どうして宮廷魔道士になれた」
「………」
ああ、と女は嘆息した。
黒髪黒目が主な民族であるミルガウス王国の宮中は、『そうでない』容姿の者を徹底的に『よそのもの』扱いする。その風当たりは、カイオス・レリュード自身も感じているところではあるし、彼女の容姿に対するそれは『アクアヴェイル人』に対するものより、ずっと厳しかったはずだ。
「表に出ていないだけで、王国のために働いている異民族は、実は結構いるんだよ」
「それは知っているが」
「私はたまたま――バティーダ様の目にとまった。それだけさ」
「…」
それ以上の経緯を口にするのを拒んでいるように、カイオス・レリュードには映った。
その心情に沿うわけではなかったが、そのまま当たり障りない言葉に逃げる。
「バティーダ・ホーウェルン様には、俺自身世話になった」
「そう、だろうね。あんたが左大臣をやってるってことは、そういうことなんだろう。あの方は、血筋や身分なんて見ちゃいない。王家の――ひいては王国のためになるかどうか。あの方には、それだけだった」
「俺の知るバティーダ様は、思慮深く公平なやさしい方だったが」
「ああ、そうだよ。とても思いやりがあって、やさしい方だ。やさしいから、たとえ能力のない人間に対してであっても、国の中枢にかかわるべきでないような人間性の者にも、公平に接しておられた。だが、その腹の中で眉ひとつ動かさず彼らを駆逐する術を考えている――私にとっては、恐ろしい人だった」
「そういった厳しさは、為政者としての覚悟のように見えたが」
「それは――」
エカチェリーナは、何か言いかけた。
カイオス・レリュードがバティーダ・ホーウェルンと出会ったのは、4年ほど前の話だ。彼が左大臣を拝命して数ヵ月後に老人は亡くなった。
死期を悟った老人しか知らない人間には、エカチェリーナの示唆する『厳しさ』は分からない――彼女はそう言いたかったようにも見える。
「ひとつ、いいか」
バティーダ・ホーウェルンの厳しさ。
自分の知らない老人の本性を知る女。
不意につい先ほどのフェイ・アグネス・ウォンとの会話が彼の脳裏によみがえってきた。
感情のこもらない瞳で、淡々と紡ぎ出したあの言葉。
「15年前、年端もいかない王位継承者に、バティーダ様がある言葉を言ったらしい。『死に呪われた子』、と」
ぴくり、とエカチェリーナの肩が動いた。
その反応は、言葉でなくともその真偽を伝えていた。
国の中枢で辣腕をふるっていた老人は、確かに幼子を『死に呪われた子』と断じてはき捨てたのだ。
「俺には、彼が他人に対して――ましてや善悪も分からないような年の子供に対してそんな言葉を使うとは、到底信じられないんだが」
「あの時のバティーダ様は、ひどく動転していた。私たちごく一部の人間に、震えながらそう言ったんだ」
あんなにあの方が取り乱しているところは、後にも先にも見たことがない、と。
呟くように告げたエカチェリーナの瞳も、物憂げに沈んでいる。
「私は、確かにフェイ様を怖いと思ったことはある。底知れない何かを、あの方は持っている。だけど、『死に呪われている』ようには見えなかった」
「………」
「あの方は、いまだにその言葉にとらわれているように見える。私には、それが気の毒に思える」
くぼんだ目の中にある光は、いつの間にか慈しみをはらんだ深い落胆の表情へと変化を遂げていた。
彼女の目に映る景色は、現在か、過去か。
いうべき言葉は自然に途絶え、深い沈黙が訪れた。
その静寂は、長くは続かなかった。
不意に建物が騒がしくなる。
歓声か――否、それは喧騒に聞こえた。
「まさか」
「七君主ってことはないだろうね」
見合わせる視線が、瞬時に緊張を孕み、戦闘の予感を伝えあう。
ドアが開いて、混血児の村の村長――ディーンが飛び込んできた。
その視線がまっすくカイオス・レリュードを見つめる。
愕然としたような、唖然としたような。
その様子に、エカチェリーナまで息を詰める中、青年はある『予感』を感じた。
これまで何度か同じような視線を身に受けたことがある。
あり得ない光景を目にした時の反応。
たとえば、『とても他人とは思えないほどよく似た人間を目の当たりにした時のような』。
「何事だい?」
沈黙に耐えかねて、エカチェリーナが呟いた時、建物の外からでも分かるほどの大音量でふはははは、と居丈高な笑い声がとどろいてきた。
ディーンが目を見開き、エカチェリーナは口に手をあてる。
カイオス・レリュードは、これまで培ったありったけの自制心を総動員し、敢えて一切の感情を頭の中から締め出して、極力無感情に短く告げた。
「知り合いだ。たぶん俺を殺しに来たんだろうな」
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