分かった。お前と契約しよう、七君主。私の息子を――カイオス・レリュードを殺してくれ。
■
暗闇の中に、その少年はいた。
アクアヴェイル人の容貌。
青の目は陽の光を映し込んだ湖面のように澄み渡り、ひたむきな光でこちらを映し込んでいる。
「久しぶりだね。『カイオス・レリュード』」
中途半端に微笑みかける所作が遠慮がちで、どこか大人びてみえた。
それは、少年が年の割に重大な責任を負ってきたためなのか、彼自身の精神的な成熟によるものなのか、カイオス・レリュードには判断がつかなかった。
「『君』と落ち着いて話をするのは、死に絶えた都の緑の館以来かな」
「そうかもな」
投げかけられる声に応じてみて、カイオス・レリュードは違和感を感じた。
耳に跳ね返る自分の声が高い。
まるで目の前の少年と同じような年頃の人間が出すような音――だが、その中身は悲しいほど大人びており、斜に構えた険が含まれ、声の高さと不釣合いな落差が『違和感』の正体と知る。
とっさに落とした視線のなかに、子供の大きさ程度の手の平が頼りなく映りこむ。
「カイオス・レリュード」
耳に柔らかく届いた声に顔を上げる。
そこには少年ではなく、一人の青年が居た。
無力な子供の姿に戻ってしまった自分と、まるで正反対に成熟したかのように――
「父は、僕たちを殺すつもりみたいだね」
表情は穏やかに声は少しかげりを帯びて、青年は優しく首をかしげた。
自然こちらを見下ろす形になるが、圧迫感も脅迫感もない。
ただ、ふわりと包み込むようにその存在はそこにあった。
こういう男はさぞかし女にモテるんだろうな、と他人事のように考えていると、思案するように相手の眉がひそまる。
「聞いてる? 『カイオス・レリュード』」
「ああ。聞いてる」
「今のままでは、おそらく父には――七君主には勝てないよ」
しんと染み渡るような、理性的な音。
眼前の青年は、事態を本気で憂いているように見えた。
それはまるで、とても善い存在の化身かなにかが、とても矮小な存在を哀れみ、手を差し伸べようとしている仕種にも見えた。
光と闇。
明と暗。
真と偽。
実と虚。
不意にある感情が、少年である『カイオス・レリュード』の心を暗雲が立ち込めるようにむくむくと満たした。
目の前で穏やかな表情を浮かべ、真摯に言葉を紡ぐその青年こそ、真に『カイオス・レリュード』と呼ばれるべき人間なのだと。
だとすれば。
(だとすれば、『俺』は何者だ?)
七君主に『作られ』、数々の意思あるダグラスたちを殺し、関係ない人間たちを巻き込み死に追いやり、どこにも属することを許されない存在である『自分』は。
自問に眉をひそめたとき、青年がふわりと手を差し伸べようとした。
とっさに身を引いて逃げていた。
強い強い光。
矮小な闇は、陽だまりの前に連れ出されると、淡雪が春の日に溶けるように消えてなくなってしまう。
そのとき感じた心境は、一瞬自分でも判別できなかった。
目を背けようとして、すぐに観念して認めた。
恐怖。
眩しい存在である青年の前で、明らかに少年は畏怖していた。
その光に触れることを。
「『カイオス・レリュード』」
こちらの心象など手に取るように分かっている――そんな体で青年は、悲しげに眉をひそめていた。
哀れみかもしれない。
それとも憐れみだろうか。
だが、今はそのことに腹を立てるよりも、一刻も早く光の前から姿をくらまし、闇の中に消えなければならない衝動が、激しく少年を駆り立てていた。
でなければ――自分は消えてしまう。
(消されてしまう)
それは、七君主の元を逃げ出して、何人もの追っ手に追われる日々の中でも感じていた、身を焦がされるような感覚を想起させた。
(逃げなきゃ、殺されちゃう…!)
少年はわき目も振らずに走り出した。
鼓動が上がり、体が激しく揺れ、闇があたりを包み込む。
(逃げなきゃ、あいつから…)
だいぶ走ったとき、ふと後ろを振り向くと、亡羊と光が遠く見えた。
その中に浮かび上がる人影はずいぶんと距離を隔てているためか、青年か少年か判別できない――だが、『光』は悲しげな仕種で、じっと『闇』の中を見据えていた。
あいつがこっちを見てる!
少年は前へと向き直ると死に物狂いで足を速めた。
「このままじゃ、僕たちは…いや」
遠く声が聞こえる。
少年はそれを背中で受ける。
カイオス・レリュードが現実に浮かび上がる直前のわずかな隙間に入り込むように――。
「このままじゃ、君は消えてしまうよ」
■
「っ!」
その夢に駆り立てられて跳ね起きたとき、あたりはまだ薄暗かった。
窓からはわずかな曙光が差し込み、夜明けが近いことを示している。
白の学院の都市にある宿の一室。
古代図書館に赴き何とか脱出してから、カイオス・レリュード自身あまり記憶がはっきりとしているわけではない。
負傷した足を引きずりながら、宿屋のベッドにたどり着いたところまでは何とか覚えているが、そこからは熱い泥のなかに引きずり込まれるように眠りに落ち、目が覚めたら夜が明けかけていた。
足の傷は必ずしもいい状態ではない。だが、熱が下がっているのは、傍らにずっと付き添っていたらしい――ティナ・カルナウスの回復魔法のおかげだろう。
「んー」
彼女もあの道程の中でさすがに疲れたのか、上体をベッドに投げ出してすやすやと寝息を立てている。
七君主が、復活した。
ストラジェスが、アクアヴェイル国王に憑依し、不穏な動きを見せている。
ティナ・カルナウスの正体。
切迫した状況の中、しかしこの場に満ちる穏やかな時間はそんな現実の懸念をふいにするように、やさしくたゆたっていた。
「バカだな…」
たった一日前、同じ人間に同じ状況で呟いた言葉を、カイオス・レリュードは再び紡ぎだした。
まさかあの時、彼女があの言葉を聞きていたとは思わなかった。
思わずもらした本音を――あれほど見事に取り違えて明後日の方向に思い悩むとも思わなかった。
彼女はいつも真剣に、ひたむきに、懸命になってこちらを見つめ続けた。
「………」
バカだな、ともう一度彼は呟いた。
視線を落とすと、そこには夢で逆行した『少年』のものではない、無骨で年月を重ねた男の手がある。
何人もの血を吸った手。
彼女が引っ張り続けた手。
自分から思わず相手に差し出した手。
おそるおそる、といった体で触れてきた女の体温は、驚くほど熱い躍動感に満ちているのに、驚くほどはかない細さを併せ持っていた。
「………」
その時に感じた心情をも握りこむように、男は手のひらを握りこんだ。
曙光が白い光と変わり、朝の日が降り注ぐまで、悲しいほどやさしい時間の中で、彼はじっと考え込んでいた。
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