Lost Words
    神は始め、天地を創造された。「光あれ。」――こうして、光があった。
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  第一章 悲しい子守唄
* * *
 優しく髪をなぜる白い手の感触と、優しい声音だけは、なんとなく覚えている。
 子守唄の響きは遠く、まどろみの中で、嬰児は母の言葉を聞く。

 フェイ、ウェイ。
 わたしのかわいい子供たち。
 あなたたちが風の属性と天使の力を継いだことで、過酷な運命が、あなたたちを苦しめることがあるかもしれない。
 だけど、どうか覚えておいて。
 わたしたちは、あなたたちに苦しみを味わわせるために、あなたたちをこの世界に送りだしたんじゃないの。
 この広い世界には、あなたたちを受け入れてくれる人がきっといる。
 だから、どうかあきらめないで。
 この広い世界の中で、自分たちの居場所を、目の前にある現実だけと決めつけないで。
 わたしのかわいい子供たち。
 わたしが、あなたたちのお父様と共に生きていくことを決めたように。
 共に隣を歩く誰かとともに、あなたたちに至上の祝福がありますように……。

「お母さん」
 風が前髪をもてあそび、少女の姿をした少年は煩わしくそれをかきあげた。
 抜けるような青い空。
 はるか眼下に青い海。
「お母さんの言ったことは正しかったよ」
 体を支えるのは、自身を取り巻く気流の渦。
 下に踏みしめる大地のない、浮遊感と消失感。そして――圧倒的な恍惚感が、ウェイの全身を駆け巡る。
 わたしの他に、この場には誰もいない。
 何物にも縛られることのない絶対的な自由。
「だけどね、幸せは一瞬だった」
 そして、絶対の孤独。
「希望の次にやってきたのは絶望だった。希望を知らなければ浅くて済んだかも知れない、果てしない闇だった」
 胸中に去来した嵐のような感情の渦を、苦労してウェイはやり過ごした。
 ここには誰もいない。
 話をできる相手も。受け止めてくれる仲間も。
「もう、誰もいない」
 だから。
「もう、疲れちゃった」
 だから。
「もう、いいよね」
 空中を孤独に漂う一つの影。
 下界からはどう映っているのだろう。
 鳥か、人か。
 天に還れず地上に拒絶された、寄る辺ない運命をたどった天使の業か。
 青い海原に白い船跡を引き連れて、一艘の帆船が港へ吸い込まれていく。
 狙いを定めて、少女の姿をした少年は、一直線に高度を下げた。


 スキンヘッド独眼のコワモテ船医を相手にできるのは、モサ揃いのロイド海賊団の中でも、一味の台所を預かる女コックしかいない。
「いつになったら、頭は、あのはねっかえりを連れて帰ってくる、ジェーン」
「知らないわよ。『お気に入り』が切れたからって、不機嫌まき散らさないでよ、ジン」
「もう、我慢ならねぇ」
 ドスの効いたバリトンが、船の台所にびんびん響く。
 ジンは、前副船長のじいさんが病気で旅だった後の、一味の最年長だ。ロイドの大剣に負けず劣らずバカでかい戦斧を、片腕でびゅんびゅん振り回す。
 いざ討ち入りか――と言わんばかりの剣幕だが、男の『お気に入り』が、ただの嗜好品だと分かっているジェーンは、つとめてそっけない声で応じた。
「あんな、まずいだけの安酒が?」
「あんな、じゃねぇ。女神にたたられるぞ」
「女神ってより、魔女でしょ、アレは」
 いわく――最高に酔いしれる、一口煽って女を抱けば、昇天間違いなし。
 コトの最中に実際天に召されたモサ続出、とのウワサが後を絶たない曰くつきの酒、その名を『ローレライ・キッス』。
 出回るのは大抵砂漠の国シェーレンで、その流通量があまりに少ないので、幻の酒とも言われている。停泊中のご当地ミルガウスでは、まず手に入らない、ゲテモノ中のゲテモノだ。
「一応料理人のはしくれとして言わせてもらいますけどね。あんなのただ麦を発泡させて、アルコールバカ混ぜしてるだけだから!」
「馬鹿を言え、あの泥臭さは他の酒など寄せつけん」
「それ、泥臭いんじゃなくて、醗酵がうまくいってなくて、腐敗してるんじゃないの!」
「少々の腐敗を飲み干すのが、真の男というもんだ」
「あらそう。あいにく生まれ持って男じゃないから、全然理解できないわ。とにかく、ロイドがフェイを連れて戻ってくるまで、ウチらここ離れられないでしょうが! それに最近、何かとキナ臭いんだし」
「む」
 話が政治関連の話題に及ぶと、船医の眉間に寄った皺が、さらに三本増えた。
「シェーレンとミルガウス間の海路が、やたらざわついてるな」
「うん。シェーレン側の商船が、様子がおかしい」
「キルド族はなんて言ってる」
「ミルガウス近辺をなまわりにしてる連中は、特に、何も」
「てこたぁ」
「仕掛けられる側になる危険があるってことね」
 せめてものなぐさめにジェーンが出した発泡酒を、ジンは一気に煽って、どんと机に戻した。
 まずい、と呟いて口元をぬぐう。
「俺は、お頭がゼルリア国王の義弟とやらになったこと、必ずしも歓迎してるわけじゃねぇからな」
 特定の国の後ろ盾を得るということは、それに伴うリスクというものも当然存在する。
 たとえば、ゼルリア王国が――より具体的に言えば、ロイドの義兄ダルウィン国王の治世が終わった場合。
 そして。今回のように、ひとたび国同士の戦争が起これば、ゼルリア陣営としていやおうなく巻き込まれる。たとえそれが、どんなに不利な側に立たされることになっても。
「確かに、日和見できないのは、ウマミが少ないわよね」
「だろ」
「だけど、ゼルリアとアクアヴェイル、どっちつかずってことは、第三勢力になるってことで、それは別の厄介事に巻き込まれる恐れがあるって」
「ああ、じーさんは、生前よくそう言ってたな」
 樫の木を刳りぬいただけの無骨なコップの底を覗きこみながら、ジンは思案するように続ける。
「実は最近、ソレも気になってる」
「うん。ここのところちょっと気配がおかしいよね。縄張り争い」
 ゼルリア王国とアクアヴェイル公国の間に横たわる海は、実は領海が明確にされているわけではない。
 ただ、『ゼルリアびいき』『アクアヴェイルびいき』の海賊たちが、それぞれの縄張りの中でなんとなく境界めいた勢力図を展開している。事が起こった時、『ゼルリアびいき』をまとめあげる求心力のひとつが、『王弟』ロイド・ラヴェンだ。――といっても、彼は『同盟を結んだヤツらと、一緒にひと暴れするんだ!』といった程度の認識で動いているに過ぎないのだが。
「ある程度日和るのはしょうがないとして、あからさまにどっちつかずが増えた」
「そのどっちつかずを束ねてんのが、ディアモンドってガキだな」
「ディアモンド……」
 ジェーンの顔が、その名前から連想される男の風評を思い出して、しかめ面に歪んだ。
「わたし、あいつ、嫌い」
「好く好かない関係なく、ウマイやり方ではあるがな」
「でも!」
「オレは海賊ってぇのは、トコトン自由でバカでいいと思ってる。そもそも利権だ利害だで国の顔色うかがって、あっちに付こう、こっちに付こうなんざ、男のやることじゃねえ」
「ごめん、その美学は全然分かんない」
「まあつまりだ、ディアモンドみてぇに、てめぇの力で一旗揚げてやろうって気概を持つのも、悪くねえんじゃねぇかって話だ。やってるこたぁ、ゲス中のゲスだがよ」
「ふぅん……」
 煮え切らない生返事を返して、ジェーンは結局、と呟く。
「うちらはどーせゼルリアびいきに入ってるんだし、そもそも生粋のミルガウスの王位継承者乗っけてるしねぇ」
「あのはねっかえりが、なあ」
「そーよね。千年竜の証を見せられちゃあねぇ」
 話の継ぎ目に、空いたコップにお代わりの酒をよそってやるが、ジンはすぐには手をつけない。
 樫の木目を歪ませて波打つ酒の水面に、男の目がゆらゆら漂って映っていた。どことなく思案している顔を見て、ジェーンもその気がかりの正体を悟った。
 男の懸念の矛先は、ナワバリ問題から船の仲間へと移っている。
「じーさんが逝っちゃってから、元気ないよね、フェイ」
「ああ。ふさぎこんじまいやがって。こっちまで、調子狂わぁな」
「じーさんが逝く前にさ、フェイと二人きりで話してたじゃない」
「そーだったっけか?」
「そう。その時からな気がするのよね、あの子がおかしいの」
 その時、がちゃりと船室の扉が開いて、少年がひょこんと顔を出した。
「なあ、ジン。新種のしびれ薬の配合相談したいんだけどって……」
 向かい合って真剣に言葉を重ねる二人の様子に、はっと目を見開く。
「なんだ二人してシンコクな顔しちゃってさ! あいびきか!? まさかねーさん、デキちまったのか!?」
 対する返事はほぼ同時だった。
「黙れ、小童」
「冗談でしょ、キリ」
 速攻で否定された上に睨みつけられて、キリはぴろっと舌を出して肩を竦めた。
 フェイを除けば紅一点のジェーンには、手を出さない。船長だけが知らない、この船の不文律だ。
「あの子の心配してたの。最近元気ないでしょ」
「ああ、フェイのことか。なんかふさぎこんでんね。お頭が、さっさと男気出して、イッパツ慰めてやればいーのにさ」
「ロイドが!? まさか!!」
「空が落ちてもありえんな」
 彼らのお頭が、フェイに好意を持っていることは、当然みんな気付いている。フェイ本人も気づいている。
 しかし、彼は『ダチ・ナカマ・イノチ』の好青年だ。その世界に『オンナ』などという生き物は存在しない。つまり、そんな経験はない。
「フェイから仕掛けるってのは……、ないよなぁ。あいつ、一回もロイドに剣で勝てなくて、相当意地になってたし」
「ありゃ、お頭が悪い。手ぇ抜きすぎだ。フェイも面白くないわな」
「本気でやりあって、女の子にケガさせたくないんでしょ。だけど最近、避けてるわよね。あの子の腕が上がって、加減できなくなってきてるってロイド、ボヤいてたっけ」
「ああ、そんで、ここんとこ打ち合いしてるの見ねぇのか、なるほどね」
「ほぼ毎日打ち合ってりゃ、そりゃ腕も上がるわな」
「負けず嫌いだもんなぁ」
 あいつ最初船に来たときは、オレより身長低かったのにさ、とキリは口を尖らせた。
「ぐんぐん伸びちまいやがって、面白くねぇ」
「あんた小柄だからね。まだ今から伸びるんじゃない?」
「ほんとか!?」
 今年16になる少年は、ぱっと眼を輝かせた。
 年の割に小柄でやせ気味なことを、誰より本人が気にして、日々腹筋だの背筋だの鍛えているが、今のところあまり効果はない。20歳になるまでにお頭の背を抜いてやる、と意気込んでいるが、仲間内でキリの野望が達成される側に賭けた人間は、残念ながら本人以外いなかった。
「お前は小回りがきくから、ガタイのでかさにこだわらなくていいじゃねぇか」
「そりゃあ、スったり、しびれ薬巻いたり、陽動したり、足の速さと手先の器用さじゃ負けねぇよ? けど、ちまちまやるより、オレだってカッコよく一閃してみたいっての、こんな風に」
 剣を佩いた風を装って、腰を落として構えをとる。
 にやっと笑って、遊び半分に右手を腰だめから斜め上に薙いだ。
 轟音とともに、船室の壁が割れた。
「え?」
 呆けた声は誰のものだったのか。
 めりめりと木が張り裂け飛び、床が大きく波打つ。
 ひどいシケの時に船体が波にあおられて、宙に浮いたことがある、一瞬の浮遊感、そして水面に叩きつけられる衝撃――それ以上の激震だった。
 間一髪、本能が三人を助けた。とっさに机の下に潜ったその頭上を、陶器や備蓄の食物が散乱する音を聞いた。
 手をついた床が、海水で湿っている。
 浸水か。
 そろそろと顔を出してみて、唖然とした。
 船室の天井が、なくなっていた。
 まさか今ので、そんなまさか、バカな。
 茫然と突っ立ったキリの横を、何かが薙いだ気配がした。
 ジンが血を吹いて倒れた。
 鼻をつく臭いと、一瞬前まで男の体をめぐっていた熱い体液が、まともに降りかかる。
(なんだ、これ)
 現象として、キリはその名を知っている。
 『カマイタチ』。
 海に伝わる怪の一種で、つむじ風とともに現れて、前触れなく船乗りの体を引き裂いていく。
 見えない刃に裂かれたように。
「ジン!」
 ジェーンが男の血を浴びながら、必死に止血を施している。
 真っ赤に染まった床と対比して、悲しいほどに空が青い。
(空が……)
 その時、キリの体を一つの衝動が駆け抜けた.
 このままではまずい。
 男に追いすがるジェーンの手を引いて、部屋の出口に向かうべく体をひるがえす。
 混乱した女は、手を引かれるままに、ジンから引き離され、悲鳴のような声を上げた。
「ねぇさん!!」
「だめ、おいていけない!!」
「バカ、空が、落ちる!!」
 互いに何を伝えあいたいのか、混乱を極めたさ中、風と轟音に空を見上げた二対の目が、切り取られた船の上半分と、それがひどくゆっくりと舞い戻ってくるのを捉えた。
 呆けたのは、一瞬、二人は間一髪その場を逃れ、甲板への階段を求め、駆け出していた。
 一刻も早く、船の外へ逃れなければ。
 天井の吹き飛ばされた船に、甲板などない。だが、混乱した二人の思考は、そこまで思い至らず、ただひたすら『出口』『上』を目指して、必死に脱出しようとしていた。
「ジン……!!」
「だいじょうぶ、あのおっさん、殺したって死なねぇ」
 こんなときこそ、男である自分がしっかりしなければならないのに、ジェーンを慰める声はかすれてひび割れていた。情けねぇ。こんなじゃ、相手の中の絶望も、自分の中の絶望も、ジンの生死に対する絶望も、何もかも拭えないじゃないか。
「だめ、水が……」
 形ばかりの台所の扉をけり開けた先の廊下の先を進むと、床が深く浸水していた。
 薄暗い水がたゆたう、はるか向こうの突き当たりに、甲板への階段がかろうじて引っかかっている。
 藍色に沈んだ水面の底に、ふと人の影を見た気がして、キリの心臓が跳ねあがる。
「アニキ!!」
 割れた船室の倒れた柱に押しつぶされて、兄が――サキが顔を下に向けて力なく水に沈んでいた。
 思わず足を踏み出しかけて、すぐに足を取られる。
 キリの胸にまで達する水位はどんどんと嵩を増し、兄の元へと駆け寄る足を憎たらしく緩慢に止める。
「アニキ!!」
 さっきの衝撃で柱の下敷きになったのであれば、まだ助けられる。
 がむしゃらに飛び込もうとした腕を、とんでもない力が引き戻した。
「フット!?」
「てめぇみたいなひょろっこが、あの柱なんとかできっかい」
 いつの間に合流したのか、でっぷりと体躯のいい船大工が、頭から血を流しながら笑っていた。
「こっちはダメだ、倉庫のところの階段から回りこめ! ジェーンと、チビを連れてな! オレぁ、サキを助けて後から行くからよ」
 糸のような細い眼が、こんなときでもどこかほほ笑んで、キリとジェーンを見つめていた。
「チビって」
「ほい、ここだ」
 上着の内側からひょこんと顔を出した、かつて海賊たちが保護した混血児の少年は、藍色の目をひたむきに瞬かせると、声なくぎゅっとキリの胸元にしがみついた。
 早鐘を打つ鼓動に鼓動が重なり、少年を突き動かす。
「行こう、ねぇさん」
 振り向いたその時、キリの目は、とんでもない光景を見た。
 そこに居たのは、よく見知った船の女コックではなく、銀の髪をした一人の少女だった。
「フェイ?」
 面影を見止めて咄嗟に呟く。
 少年の知る少女は、こんなに女らしくなかったけれども。
「違うわ」
 フェイとよく似た声色で、少女は薄く笑った。
 足元に転がった、ジェーンの体をつま先で蹴飛ばす。
 右手に何か引きずっていた。髪を掴まれた人間の顔は、暗がりのせいで判別が難しい。だが、それが船の狙撃手スィザーであることを、ふっ飛んだ理性のかけらが遠くの方でわんわんと訴えていた。
「私は、ウェイ。ウェイ・アグネス・ウォン」
 その時、はるか上空に舞いあげられた船体が、地上に落下してきた。
 マストがひっくり返り、物見台が鋭い刃先となって海上にかろうじて残った瀕死の船体に激突した。船の断末魔を愉しむように、砂塵粉塵を巻き上げ、押しつぶしながら、全てを粉砕して水面に叩きつけた。
 海面が激しく波立ち、狭い湾内に大きな波濤を巻き起こした。ミルガウスの内湾に停泊した船の中には、転覆したり、岸に乗り上げた小舟もあった。
 衝撃で船室の壁に激突したキリは、突き抜けてそのまま海へと投げ出された。
 奇跡的に、傷は負っていなかった。がぶりと水を飲んで、慌てて吐きだした。喉が焼けつくような潮の香り。げほげほと咳き込みながら、やっと海面に顔を出す。そして、赤い水面に浮かぶ、仲間たちの力のない姿を茫然と見つめていた。
「あんたたちは、あいつのせいでこんな目に遭うの」
 けたけたと、笑い声がした。
 声の方を見上げると、人が空に浮いていた。
 足場のない空中に優美に身をゆだね、水面から自らを見上げる少年を、面白そうに見下ろしていた。
 勝ち誇ったように。全てを手に入れたように。
「あいつって、誰なんだ? 何なんだよ、いったい!?」
「フェイ。あいつのせい。全て、あいつのせいなんだから!!」
「何言って……!?」
「いいじゃない。どーせ知る前に、あんた死ぬわ」
 冷然と言い放ち、少女が右手を上げる。
 ジンを斬り裂き、ジェーンを斬り裂き、船を斬り裂いた、透明な刃。
 自らに向けられた死の宣告を、瞬きする間も与えられないまま、少年は凝視していた。
 そして――その瞬間は、永遠に来なかった。
「え?」
 思わず閉じた目を開くまで、キリは、そのことをすっかり失念していた。
 濡れたシャツ越しに響きあう、自分ともう一人の鼓動。
「チビ、お前、オレを助けてくれたのか……?」
 混血児の少年の藍色の瞳が、ひたと相手を見据えていた。
 それは、少女の狂気をわずかばかり醒ましたようにも見えた。
「何なの、それ」
 醒めた目で呟いた、その仕草の延長で、彼女は手で虫か何かを振り払う動作をした。
 飛来物の残骸が、キリの目にも飛び込んできてあわてて庇う。
 次、構えと張りあげる声の先に、ミルガウスの甲冑に身を包んだ兵士たちが、沿岸に隊を揃え、襲撃者を射止めんと鋭い鏃をつがえている姿があった。
 怪我を負った仲間たちを、沿岸から海に飛び込んだ人々が救出してくれている。
 混血児だ、混血児が船を襲っているぞ、と声が声を呼び、湾内の船が少女を地上から囲い込むように、じわじわと輪を狭めて旋回する。
「ああ、ひどいじゃない。私だってあなたたちの国の王族なのに、こんなこと、するなんて」
 半分開いた口元で嗤って、少女は空ろに宙を見上げた。
「ひどい。家族も、国も、仲間も。本当に、ひどい」
 それは、夢を見ているようにも見えたし、悪い酒に溺れて、現を忘れた亡者のようにも見えた。
 ただひとり、空をさまよい、周囲から奇異の視線で射抜かれる少女。
「この地に、私の居場所なんて、ないっていうの……」
 ひどいわ、ひどい。
 そんなのって、ないわ……。


「なんかに、取りつかれてるみたいでさ。繰り返し繰り返し……。オレ、もう震えが止まらなくなっちまって、仲間の敵とか、全然、とれなくて……。結局、そいつ、そのまま空飛んで、行っちまった」
 矢も大砲も届かない果てしない大空へ。
 あるいは、ミルガウスの千年竜部隊が出動すれば、その身柄を捉える事ができたかもしれない。
 だが、襲撃から逃亡まであまりに時間はなく、そもそも一艘の海賊船転覆に、千年竜の出動許可がでるはずもなかった。――ミルガウス国王ドゥレヴァの耳に襲撃者の名が伝わっていれば、事態は変わったかも知れないが。
 ゼルリア王城にて、ティナ・カルナウスたちの前で事の次第を伝えた少年は、最後は嗚咽と共に震えながら、顔を伏せた。
「ごめんロイド。ごめん……フェイ」
 王城の円卓会議の場に集った人々は、少年の嗚咽をただ聞いていた。
 ゼルリア国王を筆頭に、白竜ベアトリクスと、黒竜アルフェリア。ミルガウス王国側は、王女アベル、カイオス・レリュード、エカチェリーナ。そして、ティナとクルス。妾将軍の精霊イクシオンは、人の世の争いごとに関わることはしないと、ゼルリアへの同行を断り、北の大地に残った。
 力なく佇むキリに、誰も、何も言葉を掛けられなかった。
 そして、敢えて視線を当てられないでいた。
 瞬きひとつせず、事の次第を静かに聞き切った、海賊の船長を。無感動に佇む副船長を。
 やがて、ロイドは音もなく立ち上がると、静かにキリの傍に佇んだ。
「ウソだろう?」
 静寂の中に、穏やかな声が波紋を描いて響き渡る。
「あいつらは強い。誰かにやられるなんて、あるはずがねぇ」
「お頭……」
「ウソだ。なあ、ウソだって言ってくれよ、キリ!!」
 小柄な少年の肩に、触れた指先がめりめりと食い込み、細かく震えていた。
「痛っ……」
 あまりの力に骨が悲鳴を上げ、キリの顔が歪む。
 慌てて止めに入ったアルフェリアとベアトリクスの力をものともせず、男はなおも追いすがる様に、少年を体ごと激しく揺さぶる。
「どうして、こんなことになったんだ!? どうして……」
「ほら、言った通りになったでしょう」
 ロイドの激情に、水を差すように放たれた言葉の主を、場に集った全員が、ぎょっと見つめた。
 ティナも、クルスも、アベルも、エカチェリーナも、カイオス・レリュードも。
 誰もが制止の言葉をかけようとする、その誰よりも早く、淡々とフェイは告げた。
 心をどこかに亡くしてしまった、人形のように、無表情に。
「オレのせいで、こんなことになった。あんたがオレを見限らないから、仲間たちが犠牲になった」
「フェイ……」
「オレは、『死に呪われた子』だから」
 キリから身を離し、よろよろとフェイに近づくロイドに、誰も、どんな言葉も、かけられなかった。
 透明なガラスのように澄み渡った藍色の目が、自らの前に立つ赤髪の男を海の水面のように映し返す。
 その顔が、甲高い音と共にそむけられた。
「いい加減、いつまでもいじけてんじゃねえ」
 相手の頬を張った手を握りしめ、地響きするかのような怒声で男は吼える。
「仲間の大事に、言っていいことと悪いことくらい、考えろ」
「あんたが悪い」
「何?」
「あんたが、オレなんかを冬山に探しに来ずに、見捨てていれば、船のみんなが襲われることなんてなかったんだ」
「お前」
「頼んでもないのに船に乗せて、頼んでもないのに仲間呼ばわり。もう十分だ」
「フェイ!」
「もう、十分だ。あんたの自己満足の仲間ごっこに、付き合うのは」
 混血児の言葉が放たれた直後の一瞬、拍子抜けするような空白の間があった。
 それは、付きつけられた言葉を、ロイド自身が噛み砕き嚥下するために、いやおうなく必要とされた間だったのかもしれない。
 言葉を飲み下し、腹の底にとどめ、その意を解した瞬間、男は獣のような咆哮を上げて、相手に掴みかかった。
「わかりました。もう十分です」
 寸前で甲高い少女の声が、ひと際高らかに言い放たれた。
 全員の意識がその意外な発言者に釘付けされる。
 アルフェリアでも、ゼルリア国王でも、カイオス・レリュードでもなく。
(アベル……)
 呆然とするティナの前で、少女は卓に手をついて立ち上がると、ふっと大人びた仕草でため息をついてみせた。
 大人たちの言動の一部始終を見続けてきた黒曜石の瞳が、ことさら底光りして、周囲を、黒い鑑のようにきらきらと映し返している。
「ダルウィン陛下。王弟ロイド殿。我が兄――ミルガウス国王位継承者のあまりに軽挙にすぎる発言、私が変わってお詫びいたします。ただ……彼は、七君主にとらわれて長い間臥せっていたので、いまだに平常の状態ではないのです。どうか、ご理解いただき、なにとぞご容赦願えないでしょうか」
「あ、ああ」
「アベル……」
 激情の抜けた後の、ロイドの干からびた声を聞いて、アベルの目が、泣き笑いのように儚く細められた。
「ロイドさん、私の知っている海賊船のみなさんは、強い人たちばかりです。みんな、死んだわけじゃない。絶対に大丈夫です」
「あ、ああ」
 ロイドは、アベルに頷いて見せたあと、後ろ髪を引かれるように副船長を省みた。
 混血児の青年は、どこまでも人形のように佇んでいた。
 ロイドの葛藤も、アベルの思いも、全てを。自らの横を吹きぬけていくだけの、実態のない風とみなしているかのように。
 そして、硬直した空気の中をすっと歩き出すと、音なく扉を開けて、部屋から姿を消した。
 抜け殻のような空間だけが、後に残った。
「悪い……頭を冷やしたい。少し時間をくれないか」
「分かりました。ダルウィン陛下、ロイド海賊団が壊滅状態の今、アクアヴェイルとの海戦にも影響がでますよね。こちらも、少し時間をいただきたいのですが」
「承知した」
「では、後のことはカイオス・レリュードに任せます」
 失礼、と言い置いて部屋を後にする、その背を慌ててティナは追った。
 円卓会議の場から続くゼルリア城の廊下は、深い青を基調として、凪いだ海原のような静けさをたたえている。
 戦争準備で騒がしいはずのこの時分、人払いが行われたのか、王女とティナ以外に人の気配はない。
 何か声をかけようとして、ティナはやめた。
 立ち止まった王女の細い肩が、がたがたと震えている。
「まったく、私にあんなこと言わせるなんて、カイオスは減給ものですね」
「アベル……」
「そう思いません? ティナさん」
 振り返った少女は、泣き笑いに似た表情を浮かべていた。
「あのね、アベル……。前、私に言ったことあったじゃない。自分なんか、居てもいなくてもいい、お飾りの王族だ、みたいな話」
「はい、そうですね」
「もう誰も、そんなこと思わないと思うわ」
「だと、いいんですけど」
 アベルはくすぐったそうに笑ってティナの方へ歩み寄ってきた。ちょっとごめんなさい、と呟いて、添うように、頭をティナの肩に預けてくる。
 ほっとため息をついて、すぐにアベルは離れた。もう震えていない。
「ロイドさんが怒るのも、もっともな話ですよ。副船長さんは、本当に何のつもりなんでしょう」
「確かにちょっと……尋常じゃないわよね」
「仲間が傷つけられて、動揺してる……のとは、違うみたいでしたし」
 うーん、と宙を見上げて、王女は続ける。
「正直、わたし、フェイさんが自分の正体を隠して、一緒に石板を探す旅をしていた時の方が、よほどまともな人に見えます。今はなんというか……」
「あ、それなんとなく分かる! 死に絶えた都でカイオスが操られたときなんか、すごく助けてもらったし」
「そうなんですよね。船で移動してるときだって、ロイドさんや他の海賊の方に対しても、お互いにすごく信頼関係があるように見えたんですけど……」
 そんなに王位を継ぐのがイヤで、正体が分かってしまって拗ねちゃったんでしょうか、と小首を傾げる。
「逆に、正体が分かったから、かも知れないわよ」
 ふと思いついてつづった言葉を、アベルは、えっと聞き返してくる。
「正体がばれて船を降りなきゃいけなくなったから、嫌われようとして、わざとあんなこと言ったのかも。ロイド、さびしがりそうじゃない」
「それはそうかも知れませんが、さっきのアレはナイと思います」
「うん……」
 フェイの肩を持つ気はないが、仮に持とうとしても、持ちようがない。
「いずれにしても、ベリアルの呪縛から解放されて、眠りに落ちて……目が覚めてから、ですよね、彼があんな風になってしまったの」
「うん……」
 副船長の態度について言いあうことはできても、答えの出せるものではない。
 接していた長い時間、ローブの向こう側に隠れていた人物の実相はぼんやりと歪んでいて、『人形のような』、『無感動の』虚像ばかりが、いたずらにその人の真実を覆い隠す。
「それはそうと」
 上目づかいに呟いて、アベルは苦笑いに似た表情で話題を変えた。
「らしくないと言えば、本当にらしくないですよね」
「え?」
「カイオス・レリュードが、ですよ」
「どういう……こと?」
「普段の彼なら、私にあんなこと、言わせません。その前に、フェイさんにあんなこと言わせない。いくら見知った顔ぶれが大半であったとしても、ゼルリア国王の御前ですよ」
 それまでティナに向き合っていた王女の目が、ふっと逸れてかすかに笑った。
「ですよね?」
「ああ」
「ちょっと、お疲れですか?」
 二人に続いて部屋を出てきたカイオス・レリュードは、先だって怪我をした足がまだ痛むのか、少し引きずる仕草をしながら、言葉少なに息をついた。
 その様子に、ティナは内心眉をひそめる。
 とっさに言いかけた言葉と、それを自制する葛藤が、束の間喉の奥を締め付けた。
 そのティナの眼前で、青年は服の裾を払って礼を取ると、アベルに対して頭を下げた。
「王女の手を煩わせてしまい、申し訳ありませんでした」
「いいえー。ゼルリア側との調整、ご苦労様でした」
 にこにこと返して、アベルは、それで、と続ける。
「結果はどうなりました?」
「ダルウィン陛下とロイドを残して、一時散会。まあ何にせよ、時間は必要だわな」
 答えたのは、カイオスに続いて部屋を出てきた、アルフェリアだった。彼は、ゼルリアの将軍として、ロイド海賊団ともティナ達より付き合いが長い。傍に立った海賊の少年の肩を、とん、と叩いた。
「だいじょーぶさ。連中は、絶対だいじょうぶだ」
「うん……」
 仲間たちが倒れていく様を目の当たりにし、船長と副船長との対立をまざまざと見た少年は、青ざめた顔で力なく頷いた。
 続いて、ベアトリクスやエカチェリーナ、クルスも合流し、ロイドとダルウィン以外の顔ぶれがそろったところで、はばかりながら、アベルがあの、と声を上げた。
 その言葉の先は、海賊の少年に向けられている。
「あの……もしよかったら、副船長さん……フェイさんのことを、教えてもらえませんか?」
「え?」
「彼が、どういう経緯で海賊船に加わったのか。仲間になったのか。私、あの人が、あそこまで冷たい人間だとどうしても思えないんです。だけど、彼は……七君主べリアルにとらわれてから、変わってしまった」
 言外に、べリアルに操られた私のせいで、と自身を責める葛藤が見え隠れしている。
 キリは、わずかに逡巡した表情を見せた。
 結局、言葉少なに告げた。
「いいよ」

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