Lost Words
    神は始め、天地を創造された。「光あれ。」――こうして、光があった。
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    序章 前夜祭の前夜
* * *
 砂漠の国の月は、白く美しい。
 シルヴェア王国を追われた当初、その白さはまがまがしい魔物が妖艶笑みで誘惑しているように見えたが、年月を経てみると、それは清廉な妖精が奏でる優美な舞の残光のごとくに見えてくるから不思議なものだ。
「ローランド殿」
 不意に、少女の声が自らの名を呼んで、男は感慨にふけっていた己の思考を外へと戻した。
 白い紗の布を幾重にまとい、美しい宝玉を編みこむように髪にあしらった少女が、こちらの視線を受けて軽く頭を下げた。
 シェーレン国の水の巫女。
 そばに共連れの姿はない。
 驚きと不審に、ローランド・ブロッサムは目を細めた。
 本来ならば、『賊』である自らとはめぐり合うべくもない高位にある娘だが、とある事件で知り合ってこの方、何かの折に言葉を交わす機会も増えた。ローランドにあてがわれたこの邸宅に、食事に招いたこともある。しかし、このような夜更けに単身訪ねてくることは、あまりに不用心――むしろ、その身分にあるもののとる行動としては軽挙に過ぎるとすら感じた。
「セレア殿。何か、火急のご用件でしょうか?」
「実は――」
 少女が淡い色の唇を開きかけた、まさにその瞬間だった。
「兄貴、大変だ。変な鳥が――」
「鳥?」
 騒がしく飛び込んできた弟ヴェイクに眉をひそめながら、しかしその後を追うように颯爽と視界に現れた極彩色の『ソレ』を見て、かつて勇猛果敢で名を知られたローランドは不覚にも一瞬ひるんだ。
「きゃ……」
 水の巫女セレアが、口元を覆って、鳥の進んだ距離分きっちり下がる。
『やあやあ、僕の親愛なるお友達』
 鳥は空中でさっそうと制止すると、ばさりと片羽をキザに広げ、あうことか人語をしゃべった。
「お、お友達なんですか……?」
 おそるおそる伺ったセレアに、ローランドはこれ以上なく渋い面持ちで静かに首を横に振る。
 何が嬉しくてこんな歌舞いたしゃべる極彩色の鳥に『お友達』呼ばわりされなければならないのか。
「これ……魔法だ」
 ヴェイクが少し驚いたような声をあげた。
「ナリはめちゃくちゃフザけてるけど、超高級魔法じゃん!?」
『ふっふっふ。その通り。ボクをそこらへんの鳥さんと一緒にしないでもらいたいものだね!』
 極彩鳥は、非常に得意げに尻尾をふりふりした。
 そして、高らかに続けた。
『さて、これから君に伝えることがあるんだ。親愛なるお友達。ちょっと人払いをお願いできるかな?』


「戦争だって?」
 ジェレイド・カーダは、思わず妻イリスと顔を見合わせた。
 大声に驚いた赤ん坊が、おぎゃあと泣きだす。イリスがあわてて席をはずし、ジェレイドはその鳥と単身向き合った。赤ん坊の泣き声と、それをあやす妻の声が、粗末な壁の向こうから漠然と聞こえてくる。
 森の中の一軒家。子どもと妻と、森のさざめきを除けば、そこに残るのは己と、ふざけた極彩色の鳥だけだ。
 しんとした夜の帳の中で、ゆらゆらと風にそよぐ明りが、頼りなげに影を作る。
 かつて、シルヴェア国でシルヴァードと並び『双璧』と言われた。しかし、禁書を読み解けと命じられ、命令の通り読み解いた結果、『禁書を読み解いた罪』で、城を追われた。
――賢王の粛清。
 国を追われたジェレイドにとって、故郷が戦争に巻き込まれようと、どうなろうと、それは他人事のはずだった。
 しかし、鳥の語る言葉に、心臓をちくり刺されるようなもどかしさが全身を血と共にめぐる。
『そう、戦争だ。アクアヴェイルが、ルーラとシェーレンと手を組んだ』
「よりによって、シェーレン、ルーラか」
 第一大陸中央から北部に広がるミルガウス、ゼルリア王国にとって、第一大陸南部のルーラと海を挟んだ第二大陸群アクアヴェイル公国を同時に相手取る地の利の悪さ。さらに、物流の要であるシェーレン国から物資の流れが途絶えれば、肥沃なミルガウスとはいえ、無尽蔵に戦えるものではない。
 しかし、その事実を差し置いて、ジェレイドには己の胸に浮かんだ疑問を、われ知らず口にしていた。
「最近穏やかだったはずなのに……なんでいまさら戦争なんだ……?」


「バカな! アクアヴェイル公国とシェーレン王国と結んで、戦争などと」
 ルーラ国王女テスタロッサは、王族上級貴族の居並ぶ謁見の間にもたらされた知らせに、思わず声を荒げて立ち上がった。
 ろうそくの明かりが、深夜の王城を煌々と照らしていた。
 玉座の王、並びにそれに連なる一族の面々は、強大なミルガウス王国相手にこれ以上ない条件での開戦に、にわかに沸き立っている。
 ミルガウス国との国境にある堕天使の聖堂。その境をさらに『北』へ。
 好戦派が、秘密裏にルーラやアクアヴェイルに同盟の誘いをかけていたことは事実だ。
 しかし、アクアヴェイル公国は、ミルガウス・ゼルリアとはここ数年友好関係を続けており、シェーレン国も、商売相手であるミルガウスと戦争などして物流の流れを止めることによる不利益くらいは勘定するはず。
 国際政治は、何かの拍子に歯車が狂うことがあり、それがきっかけで戦争に発展することもある。しかし、その兆候が、今回あまりになさすぎた。
 まさに、『振って湧いた』ような、開戦の知らせだった。
「おやめください、陛下。何の大義があって、他国と剣を交えるのでしょうか!?」
「テレサ」
 一人、悲痛な面持ちで玉座の王を見上げた姫に、壮年の王者は幼い子供を宥めるように言葉を紡いだ。
「そなたは、シルヴェア王国第二王子の許嫁であったことから、常にミルガウス王国に心を寄せているのだろう。しかし、わが祖国の繁栄にももう少し心を砕いてみてはどうかな」
 周囲から、あからさまな失笑が沸き起こり、テスタロッサの心を刃物よりも鋭く突き刺した。
 テスタロッサがシルヴェア王国第二王子フェイの婚約者であったことは事実。
 その後王子が、闇の石板が砕け散った事件で『死亡』し、ルーラ国へ帰国した後も、その立場から親シルヴェア国派とみなされ孤立し、ともすれば強硬に戦争を推す一派の懐柔役として立ちまわってきたことも事実。
 そして……、その結果、父王から命を狙われた。
 しかし、彼女は断固として非戦を貫こうと誓っていた。
 亡きフェイ王子のお墓に言葉を届けてくれるといった、あのローブの青年との『約束』にかけて。
「繁栄とは……他人の血の上に築かなければならないものなのでしょうか?」
 まっすぐに、テスタロッサは玉座を見上げた。
「義もなく他人から毟り取った富でこの国を豊かにしたところで、我が国の民が誇き王と、あなたをあがめるでしょうか? 暴力を是とした報いは、必ず自らの身に返ってくるのです……われらの、民の上に!」
「テスタロッサ」
「誰なの? この国をバカげた戦争に駆り立てた愚か者は誰です!?」
 声は鋭く謁見の間に響き渡り、失笑も嘲笑も消え、水を打ったような静寂が、束の間時間を止めた。
 時を動かしたのは、来客を告げる鬨の声。
 広間の扉が『国賓』の来訪を受けて開け放たれ、人々は膝をついて、その人物を迎えた。
 王が玉座から立ち、自ら階段を下りてその人物の元へと向かう。
 テスタロッサの目に鮮やかな金の色が、作り物めいて美しく映った。
 深夜の来訪者――本来、歓迎されるはずのない時刻に闇の中を現れたその人は、ろうそくのぼんやりとした明りの中で、とても美しい目で周囲を見渡した。
 聡明で、透明で、――優しい面持ちをしていた。
「ようこそ、おいでくださいました。ダグラス・セントア・ブルグレア殿」
 王が男の名を呼び、自ら玉座を立って手に手を重ねる。
 その一連の光景を、凍りついた視界の中にテスタロッサはただ見つめていた。
 ダグラス・セントア・ブルグレア。
 かつて三賢者の一人に数えられた、アクアヴェイル公国の元宰相。
「お久しゅうございます。陛下」
 音楽的な声音が、心地よく耳を打ち、周囲から感嘆のため息が漏れた。
 男の青の目が、王の他に一人立ち尽くしたテスタロッサを認め、柔らかく、どこまでも柔らかく――穏やかにほほ笑んだ。
「私が、戦争を引き起こした『愚か者』です、姫。以後、どうぞお見知りおきを」


「戦争、か……」
 雪国の夜空を眺めながら、エカチェリーナは仲間から離れただ一人、窪んだ己の瞳の中に、中天の月を映しこんで物憂げにため息をついた。
 かつての祖国シルヴェア国の危機。
 周囲の仲間たちが浮足立つ中で、どこか斜に構えた心持で、事態を俯瞰する己がいる。
 シルヴェア王国元左大臣バティーダ・ホーウェルン。
 魔術の師として心から尊敬し、父親のように慕っていた。
 敬愛するその人の口から、あの言葉を聞くまでは。
(村一つ滅ぼしてこい、なんて……)
 バティーダ・ホーウェルンから命じられた一連の出来事を、今まで誰にも明かしたことはない。
 激しく逆らい、抗議したエカチェリーナを、老人は鬼のような形相で、三日三晩引き留め、『強引に』首を縦に振らせた。結果、彼女は二重魔法陣を使って、何の縁もゆかりもない村一つを、標的に――結果的に、術は暴発して、そこに住んでいた人間ごと、村は『消えた』。
 思えば、それが一つの契機だったようにすら思う。
 エカチェリーナが王宮を追われて後、『賢王の粛正』という名の人狩りが、王国をむしばみ、はびこった。
 時は移り、真実は明かされた。かつての粛清は、『七君主がシルヴェア王国を滅ぼすため』に、ソフィア王女に取りついて行っていたと。
 しかし、自らが犯した行いは、バティーダ・ホーウェルンの気まぐれで残虐な命令によるもの。
 かつて砂漠で自堕落な情報屋を営んでいた時分から、『真実』を知った今も心は晴れない。
「私は、どうするべきなのか……」
 一つの事件は深く心に楔を打ち込み、ただ柔らかく地上を照らす月の光を、色あせた無機質な白へと無慈悲に変える。
 あるいは、この月の光を本来の美しい姿で見上げることのできる人間が、この地上にどれほどの数いるだろうか。
 自分自身も、あのティナや、カイオスや、フェイ『王子』や、あるいはロイドですらも。
 見上げる人間は身勝手に、己の心情を天空に託して、自らの境遇を省みる。
 だとすれば。
「なんて滑稽なんだろうって、笑ってるのかね」
 見下ろす月は、何を思ってただ変わらぬ光を注ぎ続けるのか。
 夜明けの時はいまだ見えず、どこまでも研ぎ澄まされた凍風が、ただ佇む夜の影を、地上に落としていた。


「なんて滑稽なんだろうな」
 ミルガウス王国太政大臣エルイズのつぶやいた独り言を、ミルガウス王国左大臣補佐ダルスは、腹立たしい心持で聞いた。
 ミルガウス王国とアクアヴェイル公国との休戦条約の締結更新のため、アクアヴェイルの天空城を訪れて、そのまま城の一室に幽閉されて数日。
 その身を縛りあげられるような目には今のところあっていないが、窓に格子のついた部屋の外には厳重に警備兵が張り付き、風すら通さない室内には、二人の男の沈鬱なため息が、重く足元に振り落ちる。
 格子の外には、真っ黒な空にまばゆい輝きを放つ月夜。
 小島群から成るアクアヴェイル公国には、人の居住できる土地があまりに少なく、少しでも他より良い環境を求め、人々は上へ上へと領土を求めた。いまや地層、中層、天空層の三層から成る中央島には、芸術区、職人区等の高等文化を排出する街並みが所狭しと作り上げられ、雲に達するのではとさえ囁かれる天空城を頂に掲げた『水上の華』と称される美麗な景観を作り上げている。
 天から湧き立つとされる水の流れは城を頂点に下界へと流れ落ち、清廉な水の音が、昼夜を問わず涼しげな音を国中に響かせていた。
 それはどこか、潮騒にも似ている。
 こんな上空の鉄格子に隔てられた部屋の中に、潮の香りなど届かないものを。
「滑稽、ですか」
 ダルスは、極力感情を押し殺した声で応じた。
 エルガイズは、意外そうにこちらを見た。
 その表情が意図するところを悟って、ダルスは渋々告げる。
「こうも話相手がいないと、あなた様も退屈でしょう」
「他に人目もないことですし、どうかお気を使われませんよう」
「それは、あなたが奴隷出身であることをおっしゃっておられるのか」
 実のところ、男二人、他の使者と引き離されて軟禁されてから数日、言葉を交わしたのはこれが初めてだった。
 ダルスの目に、太政大臣エルガイズは何か考え込んでいる風で、おそらくそれは、アクアヴェイルがこちらをとらえる際に発した、『戦争』という事柄に関することであろうとは、容易に想像がついた。
 だからこそ、彼は相手の思考を邪魔するべきではないと、自ら口を閉ざし、ダルスなりに状況の把握と分析に努めた。結果は、ただ『どうしようもない状況である』ことを、鮮明に自らに結論付けただけに終わったが。  
 その状況に対する愚痴めいた独り言に『滑稽』という評価を下したエルガイズに、少し興味を持った、といったら不謹慎だろうか。
 『奴隷腹出身』の太政大臣。
 正直なところ、鼻つまみ者と思っているのも事実だ。
「俺はあなたのように学があるわけでも、礼儀作法を知ってるわけでもない。そういうお偉い人間の傍について、動物同然の空気感で、その着替えを山ほど手伝ってきた人間です」
「幼少期にはアクアヴェイルにおられたとか」
「両親が少しばかり高位の人間に気に入られてね。アクアヴェイルの奴隷には、階級がある。ご存じでしょう?」
「ええ。高位貴族付きの奴隷は、客将に準じる待遇を受けることもあるとか。平民よりよほど保証された暮らしを送れると」
「それは、本当に一握りの者ですが。舞台芸術や鍛冶技術を持つ異国の職能者を、『奴隷』という名で特権的に優遇する。所詮、籠の中の鳥ですがね」
 海抜ゼロ地点から、天空に高くそびえる公国の中には、その高低差を象徴するような確固たる身分制度が敷かれている。
 王族、貴族、平民、奴隷。
 しかし、奴隷の中にはアクアヴェイルの文化活動に帰依することや、貴族に絶対の忠誠を誓うことを条件に、平民を差し置いて、貴族に準ずる待遇を受ける立場の者もいれば、文字通り『労働力』として虐げられる立場の者もいる。
 その複雑怪奇な制度を、人間の部位にたとえて大人は子どもたちにこう語る。
 頭のてっぺんが王様と大臣様と聖職者。
 額の生え際までが貴族様で、額から鼻までが騎士と特権市民。
 平民は鼻から腰のあたりまで、奴隷は目の高さからくるぶしまで。
 首から下は従属階級、足の裏は罪人さ、と。
 異なる身分間で巧みにけん制させ、権力者への不満を持たせないよう調整する。
 巧妙な歯車が絶妙なバランスで組み合わさった積み木細工のように繊細な制度。
 机上で論ずるのはたやすいが、実用するには、熟練者の手腕が求められる。――かの国の宰相、ダグラス・セントア・ブルグレアのような。
「貴族に気に入られただけの上位奴隷なんて、雇い主の機嫌ひとつで明日には路頭に放り出されるようなもんです。むしろ、下位奴隷や平民の不満をそらすため、わざと待遇を落としてはけ口に利用されることだってたびたびだ。だが、両親はよほどそこらへんうまくやったみたいで――俺が物心ついたときには、貿易商の屋敷に寝泊りを許されるような暮らしが、ある程度保証されていました。主要三国やキルド族の商人が、入れ替わり立ち替わり屋敷に出入りしていました。耳から入る言葉の音が、その人間ごとに違っているのが面白くて、いつの間にかすべて覚えていました」
「そして、ミルガウス王国正妃エレネア様に見出された」
「はい。エレネア様がアクアヴェイルの宝玉を御所望され、貿易商がシルヴェアに赴いた際、通訳として一緒に参りまして、その際に、ね。その俺が今やミルガウス『最高位』のお大臣ですから、人生何が起こるか分からない。ただ……そのエレネア様も粛清以来、東の塔にお籠りになってしまわれましたからね。お元気でいらっしゃるか」
「えぇ」
 エルガイズがミルガウスに引き取られて10年以上、太政大臣について3年余り。
 本人から直接身の上の話を聞いたのは、始めてだった。
 それほどに、この男とダルスは、私的な言葉を交わす機会を持たなかった。
 三大陸の公用語を操り、各地域に枝分かれする方言の微妙な高低を聞きわけ、最高位の王族貴族の通訳を無難にこなす。
 ひとつ誤訳すれば、即戦争に発展しかねない国際政治の場において、その才は際立って重宝された。
 その結果の『太政大臣』。
 2年前、ミルガウスから仕掛けたアクアヴェイル・ミルガウス戦線を収めて見せた舌鋒は、ダルスの目から見ても群を抜いて秀でたものである一方で、幼いころから学問を収め、白の学院で三賢者に次ぐ学業を修めた身として、どこかあの『カイオス・レリュード』に通じる忌々しさを感じさせるものであった。
 どうして自らが『補佐』の立場に甘んじなければならないのか。
 ミルガウスが誇る三大臣は、全員、貴族階級どころか平民や自国民ですらない『馬の骨』だ。
「……あなた様の目から見て、この戦争は『滑稽』だ、と?」
「だから、『あなた様』なんて、よしてくださいよ。まあ、俺とあなたがこうして生かされてる時点で、やる気ないと思いますよ。俺なら即刻首を跳ねて、ミルガウス王城あてに白薔薇でも添えて送りつけてやりますね、開戦の印として」
「人質とするつもりでは。この天空城は、空からの守りに弱い」
「ミルガウスの飛竜部隊ですか。でも、今まで何度も戦争やって、一度も竜がこの城に達したことないでしょう」
「確かに、渦巻く外気流の関係で、飛竜と言えどこの城に到達することはできない」
「それだけでしょうか」
「と、おっしゃいますと」
「まだ何か、ありそうな気がするんですよね。考えてみれば面白い話ですよ。こんな空中にぽつんと浮かぶむき出しの城に、ミルガウスが誇る空撃部隊が一度も達したことがないなんて」
「面白い、ですか」
 不謹慎だと、咄嗟に非難しかけた口が、相手の立場を慮ってすんでで言葉をすりかえる。
「それは滑稽ですね」
「滑稽、か。そうかも知れないな」
 エルガイズはのんびりとした所作で立ち上がり、格子越しに月を眺めた。
 その後ろ姿は、月夜を愉しむ趣味人のように穏やかで、ひたすらにくつろいで見える。
「この天空城は、世界で一番高い場所、なんだそうですね」
「ええ。この地上のあらゆる場所を俯瞰できるというのが、城の名の由来だそうです。実際、標高から見ても、これより高い建造物はこの地上に存在しない」
「世界で一番高い場所」
 その声は苦笑した響きでもって、ダルスの耳を打った。
「滑稽だな。あの月を見上げながらその名を嗜む人間とは」

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