「ごめんね、ウェイちゃん」
幼い姉の最後の言葉が、今でも耳の奥に残っている。
舌足らずの、小鳥がさえずるような、高い声。
フェイが、シルヴェア王国王子として迎えられることになり、故郷の村を連れ出された。
豪奢な馬車に乗せられたフェイを追って、自分もそれに乗り込んだ。
馬車の荷台は、絨毯がふかふかで、クッションやふかふかの毛布や家具もあって、小さな動くお部屋のようだった。
時々大人たちが覗きに来ると、ウェイは毛布の影に隠れてやり過ごした。
これは二人の秘密。
だから、大人たちには内緒にするの。
「どうして付いてきたの?」
「だって、ふたごだからだよ」
出される食事も二人で分けて、シルヴェア国に付くまでずっと一緒にいた――そう、国に到着するまでは。
「必ず迎えに来るから」
そう言って、フェイは馬車を降りて行った。
ずっと一緒に居られなくて、ごめんね、ウェイちゃん。
ごめんね、ウェイちゃんと、言い捨てて消えた姉の言葉が、その時の、幼い自分の道しるべだった。
結局、フェイは二度と戻らず、空腹とさみしさで馬車の中から這い出して――迷った挙句大人に見つかり、そこではじめて、『混血児』であることの洗礼を受けた。
町中をひきずりまわされ、石を投げられ、最後は国の外に捨てられた。
向けられたのは、同情や憐みの言葉ではなく、嘲笑と罵倒だった。
どうして、と熱に浮かされた頭で考えた。
ボクはどうしてこんな目に遭うの?
おかあさんが言っていたのは、こういうことだったの?
あなたたちが風の属性と天使の力を継いだことで、過酷な運命が、あなたたちを苦しめることがあるかもしれない。
だったら、ボクはどうすればいいの?
帰りたいよ。おうちに帰りたい。
あの頃の自分は、幼くて、馬車で何日もかけて移動した距離を戻る方法が分からなかった。
だけど、故郷は雪模様だったし、ここよりもずっと寒かった。だから、ひたすら寒い方を目指して、ふらふらとさまよい続けた。
食べ物も着るものもない孤独な道程は、最悪の形で終わりを告げた。
餓死。
正確に言えば――水も食べ物もない状態で行き倒れて、『死』の眠りにつきながら、ふっとまた意識が浮上する。
混血児独特の『不死』による再生力で、少年は狭間をさまよいながら、ふわふわと生きていた。
人の行き交う森の中だったけれど、彼のことを気にかける者はいなかった。
ある者は、穢れた者を避けるように息をひそめ、ある者は、何かの腹いせにするように、思い切り蹴飛ばしていった。
悲しさも、悔しさもなかった。
ただ、母親に会いたかった。
(おかあさん。苦しいよ。もういやだよ、早く会いたいよ)
生死を行き来する感覚は、『夢』と現実を行き来するのと似ていた。
長い間、ひとりぼっちで漂っていた。お母さんとお父さんに会いたかったのに、二人はなかなか、会いにきてくれなかった。だから、ふと温かい鼓動を聞いた気がしたとき、ウェイは人知れず笑った。
お母さんだ。迎えに来てくれたんだ。
「お……か……」
「しゃべった! おとうさん、おかあさん! この子、生きてるよ、しゃべったよ!!」
さよなら、ウェイちゃんと最後に聞いた女の子の声によく似た、舌足らずの明るい声が、遠くの方から聞こえてきて、ウェイは微かに目を開けた。
「本当だ、埋めてあげないでよかったね」
「うん」
「だいじょうぶか、坊主」
人間、だ。
何か言いかけた口を塞がれて、とどめを刺されるのかと一瞬、気が遠くなった。
だが、予想に反して呼吸は変わらず、口に何かが流れ込んできた。ひと肌のぬくもりの水だと分かって、むせながら、むさぼるように飲んだ。
ボロ布のような体をそっと布でくるんで、大きな手が自分を抱きあげた。
「もう少しがんばれ。この先に村がある」
その人の声は聞こえたけれど、景色は夢の中のように、ぼんやりかすんで見えなかった。
ただ、大きな掌が温かかった。それだけで、だいじょうぶだと思った。
――この広い世界には、あなたたちを受け入れてくれる人がきっといる。
お母さん。お母さんの言ったことは、正しかったよ……。
少年は、このとき、心の底から思った。
定住の地を持たず、各地を放浪する旅芸人の一団に拾われ、迎えられた。栄養が行き届かない時間が長かったためか、回復するまで高熱が続いたためか、『男』とではなくなってしまったけれど、温かい人達に囲まれて、本当に幸せな時間を過ごした。
■
「だけど幸せは一瞬だった。希望の次にやってきたのは、絶望だった」
ウェイ・アグネス・ウォンは呟いた。
「希望を知らなければ、浅くて済んだかも知れない、底知れない闇だった」
『仲間』など、儚いもの。所詮、現のことは全て夢。
「わたしは……仲間のいるフェイが憎い」
ぎり、と歯を噛みしめて、ウェイは自らを茫然と見つめる二人を見返した。
ゼルリア国王ダルウィン。そして、王弟ロイド・ラヴェン。
ゼルリア王城円卓会議の場に突如現れた少女を見て、二人の男はどう思っただろう。
「お前が……オレの仲間を傷つけたのか」
「そうよ」
血走った眼でこちらを見つめる男に、ウェイは笑いをこらえながら肯定した。
滑稽だった。
仲間を信じていると言い切った男が、その仲間の壊滅状態をきいた今、こんなに憔悴し、はち切れそうになっている!
「カタキをとるなら、ご自由にどうぞ。ただし」
タダでやられてあげないけど、ね。
「ロイド!」
ゼルリア国王の制止よりも早く、赤髪の戦鬼は、吼えるような声を上げて、こちらに躍りかかってきた。
頭に血が上っている獣の軌道ほど、見切りやすいものはない。
それに、こちらは風を――大気中にあまねく存在する、もっとも自由で、もっとも捉えどころのないエレメントの加護を受けているのだ。
通常、いくら風の属性継承者と言えど、空中を自由に飛びまわることは不可能だ。しかし、今はそれができる。
『風の神剣』。
キルド族の少年の言葉に誘われて、自らの深き闇の深淵に向き合い、語りかけた。
汝、我が力となれ、と。
剣が応えたのは、自らの力を主と認めたからだ。
そしてそれは、一つの確信をウェイにもたらした。
私は、フェイを憎んでいる。
この憎しみを力とし、復讐することが、私の願い!
「だって、そうでしょ!? 迎えに来るって約束した弟を放ったらかして、自分は仲間と楽しく海賊ごっこ! 不公平よ、不公平だわ!!」
「何を言ってる!」
空中戦となれば、絶対有利と思ったウェイの予想を裏切り、ロイド・ラヴェンは強かった。
空から繰り出されるウェイの刃も、見えない真空の風魔法も、紙一重で避けてくる。この場が、会議場であることも、ウェイにとって不利だった。風は重厚な机や椅子といった障害物に弾かれて威力を落とし、ウェイ自身が飛びまわれる余空間もそう多くはない。加えて、男の跳躍力は、群を抜いていた。
「お前にオレは倒せねェ」
「それはどうかしら」
机の天板を足場に、一足とびに迫った男に、ウェイは微かに笑いかけた。
ロイドは眉をひそめた。
彼自身がいくら理性を損なっていても、戦いの本能が男の体を正確無比に戦いに即応させる。そこに思考の入る隙はなく、この状態で戦いを続けたとしても、少女に勝利の兆しがつかめるとは思われない。
「標的は、何もあんたじゃなくてもいいのよ」
「!」
にやりと笑った言葉の意図を悟って、ロイドが後方を振り返る。
「兄貴! ふせろ!!」
「ロイド!!」
部屋の隅で戦いを見守るゼルリア国王を襲う、透明な風の刃を警告したロイドの、無防備な首筋に、ウェイはありったけの力を込めて、風魔法を叩きこんだ。
■
「なんてことだ……」
円卓会議の場に、ゼルリア王国四竜が二人――黒竜アルフェリアと白竜ベアトリクス率いる近衛兵たちが踏み込んだときには、部屋は惨然たる状況にあった。
樹齢千年を越す神樹から作られたといわれる、部屋の名前を象徴する円卓は、真っ二つにたたき折られ、椅子や調度品は散乱し、突風が吹き荒れた後のように無残に乱されている。
「アルフェリア将軍!」
「どうした」
部下の言葉に視線を遣って、アルフェリアは一瞬、言葉を失った。
青い絨毯に深紅の染み。
「血痕……でしょうか」
傍らに立つ白竜ベアトリクスが、硬い声で呟く。
「ああ」
乾いた声で応じながら、アルフェリアは部屋の中を油断なく見渡した。
この場には、二人の人間がいたはずだ。
ゼルリア王国にとって、二つとない価値を持つ、二人の男たちが。
(どうして、二人きりにした、どうして……)
円卓会議室が、特に重厚な造りになっており、中の様子が外部に伝わらなかったことと、廊下にも人払いをしていたことが、事態の発覚を妨げた。
フェイに当てつけるように海賊船を狙った少女が、どうしてロイドを襲わないと――判断してしまったのか。
「その出血量じゃ死にはしないだろう。おそらく、本人の前でとどめを差すつもりなんじゃないか」
「カイオス」
足を引きずりながら現れたミルガウスの左大臣は、部屋の惨状を一通り見渡すと、アルフェリアを見返した。
アルフェリアも、肩を竦めた。何の言い訳も立たない。相手が風を操ること、空間を無視して現れること。すべて、こちらも把握していたことだ。
「まんまと、してやられたな」
「ああ」
「フェイのヤツはどうしてる」
「行方不明だ」
「あ?」
カイオス・レリュードの言葉が一瞬理解できず、アルフェリアは聞き返した。
「なんだって?」
「円卓会議の場を抜け出してから、彼の姿を見た人間はいない。部屋にも戻っていない。ティナとクルスが探してはいるが――いまだ所在がつかめない」
「……」
アルフェリアは、ぎりと奥歯を噛みしめた。
ゼルリア国王ダルウィンと、ロイド・ラヴェンが、何らかの事態に巻き込まれたこと。そして、ミルガウス王国王位継承者フェイの所在不明。
ディアモンドへの対応は、青竜ジョニーの代理と嘯く派手な二人が引き受けている。この事態を、ヤツに気取られてはならない。
「申し上げます!」
「今度は何だ」
慌ただしく駆け込んできた伝令に、アルフェリアの声に、隠しきれない苛立ちが滲んだ。
息を整える間すら惜しむように、彼は声を張り上げた。
「アクアヴェイル艦隊が、本国を出立し、我が国に向けて航行中とのこと。その数500」
「500……ですか。こちらに着くころには、ざっと三倍に膨れ上がっているでしょうね」
「ああ」
ベアトリクスの見立てに、アルフェリアも同意した。
アクアヴェイル海軍の正規兵に加え、二国間の海域を縄張りとする賊を抱き込んで、数は倍々に膨れ上がっていく。
「私が出ます。サラを借りても?」
「ああ」
颯爽と踵を返して去っていく同僚に、一応アルフェリアは声をかけた。
「今回の一件、相手の狙いが分からない。あんまり派手にやりすぎんなよ」
「無論」
肩越しに振り返った女将軍の目が、雪国の冷気を巻き込んで、爛と煌めいた。
「相手が弱すぎなければ、の話ですが」
「……」
ゼルリア王国四竜の名を冠する人物の中で、最近そうと判明したアルフェリアを除けば、三属性継承者が一人いる。それが、白竜ベアトリクス・レフェーラだ。
彼女の技は、殊海上では比類なき強さを誇り、将軍に拝命されてこの方、海戦における無双無敗の名声を轟かせている。
「妙だな」
ベアトリクスを見送ったのち、ふと、カイオス・レリュードが呟いたのを聞きとめて、アルフェリアはそちらへ向き直った。
「何がだ」
「ディアモンドがゼルリア城に現れたということは、第三勢力の出方がはっきりしてない、ということだろう」
「ああ、確かに」
今回の海戦の動向を占う『第三勢力』。
その要である当のディアモンドが態度を表明していない以上、アクアヴェイルが動く利点は多くない。
「あるいは、ディアモンドはすでにアクアヴェイル公国側に付くはらを固めてて、敢えてゼルリアから踏んだくれるもんをふんだくりに来たとか、な」
「それも考えた。だが、それならディアモンド自身の身柄がゼルリアにある最中に、あえてアクアヴェイルが討って出るか」
「あるいは、ゼルリア内部と外部からの挟み撃ち、なんてことも有りうるのかもな」
自分で言っておきながら、アルフェリアはその仮説に体温を奪われる思いがした。
アクアヴェイル公国艦隊を迎え撃つため、ベアトリクスとサラの艦隊が出撃する。ディアモンドが一声あげて、ゼルリア近海の『アクアヴェイルびいき』が一斉に臨戦態勢をとる。――ベアトリクスとサラの部隊は挟撃される形となる――。
「ちっ」
アルフェリアは、ガシガシと頭を掻いた。
ゼルリア国王とロイドの不在、アクアヴェイル公国の出撃報告。
重なる事態への焦りが、実態のない不安を生む。
「おそらく、ディアモンドはアクアヴェイルに付くつもりでいる」
周囲が慌ただしく駆け回る中、思案深げに瞼を落して、カイオス・レリュードが呟いた。
「それは、どういう理由で」
「今回の戦争については、先手を取った方が断然有利。俺がディアモンドでも、アクアヴェイルに肩入れする」
「なるほど」
「あんたの姉上とあの羽男は、それを見越して、交渉に臨んでるだろう。ヤツの狙いは、あの奴隷をどれほどの額でここに置いていくか。戦争への肩入れをちらつかれて、値を張り上げるのが目的だろう」
「商魂たくましいこって」
「だからこそ」
青の目が、底光りしてアルフェリアをすっと射抜いた。
「ヤツがゼルリアに滞在している今、アクアヴェイルが動いた事態が、ディアモンド自身の思惑か、事故か、慎重に見極める必要がある」
「ああ」
やっと息をついて、アルフェリアは肩を落とした。
目まぐるしく変わる状況を恨んでも、今できることは多くない。
「悪いが、俺も、すぐにミルガウスへ発つ。ルーラ国の出方が気になる」
「分かった。あんたがいないのは、痛いが、仕方ない」
「……」
「いや、悪い。そっちも、太政大臣と左大臣補佐がアクアヴェイルに拘留されてるんだったか。今のは忘れてくれ」
「ああ」
カイオス・レリュードは、踵を返しかけて、思い出したように口を開いた。
「ウェイと神剣の件については、ティナに任せようと思っている」
「いいんじゃねぇの。あの子なら、うまくやるさ」
事態をややこしくしているのは、単に降って湧いたアクアヴェイル公国との戦争状態だけではない。
光と闇の神剣をめぐる属性継承者の怨恨――当事者となったアルフェリアは、神剣の力の奔流をまざまざと実感した。
強大な力と共にある恍惚感と、破壊に対する抗えない衝動。
そして――闇に堕ちたジュレスの狂気。
改まって相対してみれば、彼女は独創的で露出の多い服装を除けば、非常に理性的で常識的な感性の持ち主だった。ジュレス自身も言っていたが、アルフェリアが神剣を暴発させて、彼女自身が村を出ることになった際も、おそらく弟を殺したいほど憎んではいなかったはずだ。
だが――理性という名の奥底に秘められた、小骨のように引っかかった小さな『わだかまり』。
それが本人の意思を超越して暴発したとき、『わだかまり』は『殺意』に変わる。
「本人が認識できない闇を引きずりだして増幅するのが神剣ってヤツなら、七君主を撃退するほどの破魔の力を持つあの子が行くのが、適任だろう。――本当言うなら、助けてやりたいところだが」
「そうだな」
「しっかし、このクソ忙しいときに、あのはねっかえりは、どこいきやがったかね」
恨みがましく呟くと、問いかけるような視線がこちらを見た。
肩を竦めて教えてやった。
「フェイのことだよ。あの副船長の様子からじゃ想像できねぇだろうけど、とんだお転婆ムスメだったんだぜ」
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