扉を開けた瞬間、どす黒い煙が視界を覆った。
「!? な…」
「何なんですか、これ…」
「真っ暗だよう…」
とっさに目を庇う。
耳には、波の寄せる音に交じって、船が波を滑る音、そして大きなざわめきが次々と押し寄せてきた。
「…っおい…見てみろ…」
愕然としたアルフェリアの声に導かれ、ティナは薄目を開け、かろうじてその陰影を捕らえる。
その、惨状を映した瞬間――煙のことも忘れて、彼女は呆然と立ち尽くした。
「…何、これ」
呆然と流れるのは、自分の声か。
黒い、帆船。
いや、炎に巻かれたのだろうか、完全に炭化した巨大な木造の『物体』が、波の上に浮かんでいた。
どこかの海から、凱旋して来たのか。
何が起こったのか。
死人は? いや――生存している人間は、いるのか。
未だ海上に存在することが、――沈んでいないのが、不思議だった。
「ちょっと、すまねえ。仕事なんでな」
険しい表情を残して、アルフェリアは一旦下船していく。
船内に居たほかの海賊たちも、あっけにとられて光景に見入っていた。
「…中、入ってた方がいい」
ロイドが、こちらを――おそらくアベルを気遣うように言って、ティナは悄然と頷く。
踵を返す瞬間、波間に最後まで目を注いでいたカイオスが、ちらりと呟いたのがティナの耳に残った。
「…始まったか」
その意味を問うことができないまま、彼女は炎の船に背を向けた。
■
「原因不明だ」
随分と時が経ち、真っ青だった空が茜色に染まった頃、アルフェリアは船に戻ってきた。
成り行きで海賊たちとともに、夕飯をいただいていた――ただ、その場に副船長はいなかったが――ティナたちは、えっ、と一斉に顔を向ける。
ゼルリアを率いる将軍は、いらいらと黒い髪を掻き、舌打ちしたげな表情で続けた。
「長くなるが、聞くか?」
もちろん、異論はなかった。
三日前、その船――ゼルリアの巡視船は、いつも通りデライザーグの港を出港した。
その日の午前中いっぱいをかけて、アクアヴェイル領海との境を廻り、そのまま北方の海域をぐるりと巡る形でその日のうちに帰港する予定だった。
しかし、その船は戻ってこず――今日の昼、燃え尽きた船の『残骸』が息も絶え絶えで『還って』来た。
乗組員は、ほぼ全滅していた。
「ほぼ?」
ティナが口を挟むと、アルフェリアは一つ頷く。
「一人、瀕死の船員がいてな。そいつが何とか舵を取ってたんだ。ま、手遅れだったが」
「…」
「そいつは、『海流』『舵が吸い寄せられた』『宝』っつって、死んだ」
しんとした場の中心に息を吐き出すように、彼は話を締めくくった。
「とりあえずの間は、そこらへんの海域を全面的に航行禁止にして…」
「時期が来たら、調査隊を派遣して…か?」
さらりと言葉が差し込まれて、視線が一斉にそちらに注目する。
「何日浪費する気だ」
全員の視線を一手に受けたカイオス・レリュードは、伏せ目に淡々と続ける。
「悠長だな」
「…アンタには関係ねーだろ。ゼルリアの問題だ」
「このままだと、三日で、ゼルリアはアレントゥムの二の舞になる」
「っ…!?」
あっさりと紡がれた言葉に、全員が息を呑み込んだ。
刺し貫くような幾対もの視線が、異国人の男を凝視する。
『アレントゥムの二の舞』――その場にいた誰もが、今は崩壊した都市の痛々しい惨状を、無意識にゼルリアに重ね合わせていた。
「…よそ者に何が分かる。勝手なこと言ってんじゃねーぞ」
その場の戸惑いにも似た沈黙を破り、アルフェリアが怒りの形相で身を乗り出す。
しかし、冷静な言葉がそれ以上の追求を許さなかった。
「魔道軌跡平面の、連動距離の二乗」
「………は?」
熱した器に冷水を注がれたような反応を見せて、アルフェリアは眉をひそめる。
唖然とした空気が広がる中で、ピンと来たのはティナの方だった。
思わず反射的に、口走ってしまう。
「あ、『ダグラスの魔曲平面』!」
「? 何だ、それは」
「えっと、魔力の飛んでった軌跡とかから、落下地点予想する計算式。ま、飛んでいった魔力を正確に描かなきゃいけないし、落下地点の魔力状態とか、波動の流れとかも頭に入れなきゃだから、かなりややこしーんだけど」
アルフェリアに、というよりも一気に自分に対して向けられた注意と疑問に答るように、ティナは先を続けた。
そうなんでしょ、と言い終わって目でカイオスの方を確認してみるが、こちらはあっさりと流される。
そんなティナに対して、さらにアルフェリアが言葉を重ねた。
「で、つまり何が言いたいんだよ」
「石版…?」
彼に答える形で、うっかりと口にしてしまってから、ティナはこんなところで出す話題じゃなかったかも、と自分の発言を悔やんだが、彼女の発言を受けたアルフェリアたちは、はっとしたように言葉を呑んだ。
「そっか…。なるほどな。それの所為かも知れねえってことか」
石版が海の上に落下して海流を狂わせ、船を破壊してしまったとしたら。
決して考えられないことではない。
「じゃあよ、オレたちだけでも、先に現場に行ってみたほうがいいんでね?」
ロイドが言うのに、アルフェリアが頷く。
「だな。おい、左大臣。あんた、場所は分かってんのか?」
「大体は」
「じゃ、決まりだ。一旦城に帰って報告してくる」
アルフェリアが言って、間を置かず立ち去っていった。
夜半過ぎに、彼は黒髪の女将軍サラと共に帰船した。
ゼルリアの国王は、兵や民に犠牲を強いる前に、ゼルリア将軍じきじきに現状を調べて来いと言ったとのことだった。
それから余り時間を置かず、寝静まったゼルリアの港から、一艘の船が波音静かに滑り出した。
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