「っ…」
ぱらぱらと、石の破片が降ってくる。
頬を掠める砂がわずらわしくて、ティナはふっと目を開けた。
振動は続いているのが、まだ感じられる。
身体は宙に浮いたように頼りなく、ゆらゆらと全身が漂っているようだった。
片腕だけが、抜けそうなほどに痛い。
いや、これは…
「…カイオス」
呟いた声が、自分の身体を腕一本で支えてくれた青年の名を呼ぶ。
彼は、崖の淵から乗り出すようにして、ティナの腕をつかんでいた。
「…」
ティナが動いた拍子に、重心がずれて重みが増したか、微かに顔をゆがめて、カイオスはため息混じりに吐き出した。
「さっさと…上がって来い」
「え…あ、うん」
足元の方に目を向けると、不安定に揺れる自分の下半身と、そのはるか彼方の下方に黒々とした水面が見えた。
『ここ』は、海の底なんだ――改めて悟ったティナの背筋を、冷たいものが通り過ぎていく。
必死に、手を崖のでっぱりに引っ掛けるが、汗で滑ってうまくいかない。
ため息混じりに、男が力を込めたと思うと、体が上にわずかに引きあがった。
「っ…!!」
それを支えに、ティナは力を入れる。
やっとの事で這い上がった頃には、彼女たちを襲った振動は、既に消えかけていた。
「あ…ありがと」
かすれた声で礼を言うと、彼は微かに目を伏せた。
そんな彼を傍に、ティナは違和感に気付く。
もう一人の彼は――アルフェリアはどうしたのか。
「アルフェリアは?」
「あっちだ」
「え」
無表情に指し示された、指の先を辿って、ティナは瞬いた。
彼女が呑まれそうになった裂け目の、向こう側に、身体を地面に投げ出したアルフェリアの姿があった。
「アルフェリア! 大丈夫!?」
ティナは、声を張り上げる。
亀裂は、それほどに深く、遠かった。
とても、行き来できるような状態ではない。
「大丈夫だよ。お前らも、ケガねーな。けど、いったん別行動した方が、いいみてーだな」
「みたいね!」
ひらひらと手を振ってみせる彼の姿に、ティナは素直にほっとする。
こうなった以上は、別々に移動するしかないか。
アルフェリアは、このまま進んでいけるが、ティナたちは、一旦戻って迂回する必要がある。
うまく、合流できることを、祈るしかない。
「気をつけてね! 今まで進んでた方向目指せば、多分たどり着くから!」
「おう、そっちもな」
気楽な様子で肩を竦め、アルフェリアはさっさと歩き出す。
ここで、足を止めていたら、またさっきのような振動が襲ってくるかも知れない。
できるだけ、早く離れた方が、いい。
「じゃあ、あたしたちもいこっか」
傍らに話しかけると、相手は既に歩き出していた。
「…」
何よ、と呟いて、ティナは小走りに駆け出す。
その背に追いついて、肩を並べて歩き出した。
■
「………」
「………」
蒼い海底都市が、静かに佇む中を、ティナはカイオスと肩を並べて歩いていた。
足音だけが辺りに反響し、時々聞こえる水の音がそこに微かに交じっていく。
沈黙が何となく気まずくて、ティナはふと切り出してみた。
「ねえ…。さっき船から落ちたとき、助けてくれたの、あんたでしょ?」
「…」
「ありがとね」
言い切ってから、ふっと息をつく。
反応があることを、期待していたわけでもないのだけど。
(やっぱり、答えはないか…)
ため息の心地で吐き出したとき、そうだな、という声を彼女は傍らに聞いた。
「…へ」
「次は、せいぜい気をつけるんだな」
「何それ」
彼の物言いに、唇を尖らせて、ティナは傍らを見上げる。
こちらは前を見つめたままの男の無表情に、何か言いかけて、止めた。
代わりに少し間を置いて、言葉を選ぶ。
「ちょっと聞きたいんだけど」
「…」
相変わらず、答えはない。
ティナの方も、特に待たずに先を続けた。
「妾将軍って、そんなにどーしようもない人だったわけ?」
夢の中で見た、女性の面影。
それは、何となく『苛烈』だとか『果敢』だとか、そういった激しさとは違う人間のような印象だった。
それが、『妾将軍』という保証はなかったのだが、何となく、気になっていたのだ。
何となく…、状況に合いすぎる気がして。
「あんたなら、何か知ってるんじゃないかって思ってさ」
ミルガウスの左大臣をしているような男なら、ひょっとして詳しいんじゃないかと。
そういった思いを込めて、ティナは待つ。
しばらく沈黙だけが漂っていて、やっぱり流されたかなと思った頃に、さらりと返事が返ってきた。
「知らないな」
「…そーなんだ」
カイオスでも、知らないものは知らないのか。
「それって、やっぱり妾将軍に対する記録が残ってないから?」
「知ってるなら、わざわざ聞くな」
「ああ…ごめん」
慌てて返事をして、ティナは少し考えた。
夢の中で出会った女性。
何度目かの夢では、彼女は泣き崩れていた。
――正妃たる私を差し置いて、異民族の王の娘を第一女王に迎えるなど…!!
「…」
そして、こうも言っていた。
『第一女王になれなかった自分は、今より王の『妾』も同じ』…――
「ねえ…じゃあさ」
再びティナは口を割る。
男のうんざりとした視線を感じたが、構わずに続けた。
「大融和時代の…えっと、なんて言う王様だっけ…」
「ソエラ朝第六十三代国王、デュオン」
「そう、そのデュオン。デュオンの奥さんって、異民族の人だったの?」
「ああ、第一女王は、な」
「第一女王と、正妃って違うの?」
好奇心から聞くと、ひとつ息をついて彼は言葉を紡ぎ出した。
「第一女王は、国王の正妻。正妃は、王位継承者の…――要するに、即位前の王の、正妻のことだ」
さらりと言われた言葉を理解するのに、少し時間がかかった。
つまり、妻を持った王位継承者が即位して国王になると、その妻も、自動的に官位の名前が変わるのか。
「じゃあ、普通は『正妃』と『第一女王』は一緒の人なのよね」
「そうでもない」
「そうなの?」
「ああ」
ティナの視線の先で一つ頷いてみせて、カイオスは続ける。
「例えば、正妃が即位前に死ねば、『第一女王』も別の人間になるだろ」
「うん」
「後は、子供だな」
「…」
さりげなく付け足された言葉を聞きとめて、ティナは一瞬息を呑む。
子供。
夢の女性の慟哭が、耳に蘇る。
「じゃあ…デュオンの場合は、どうだったの? デュオンの『正妃』と『第一女王』は一緒の人だったの?」
「いや」
「そう、なんだ」
何となく、『夢』を裏付けることが分かってしまって、ティナは少し息をついた。
それが実際の『過去』だと断定することはできないが、思わせぶりな『夢』であることも確かで。
「…」
つい、先走りしてしまう自分を抑えていると、隣でぽつりと音がした。
「カレン・クリストファ」
「…え」
「デュオンの正妃の名だ」
思わず見上げた顔は、相変わらず目線を合わせようとしないが。
「あ、うん」
ティナは頷いて、続きを待った。
カイオスは、少しの間を挟んで言った。
「彼女は、第一女王にはならなかった。さっきも言ったが…デュオンの第一女王は異民族の娘で、確かシェイリィといったはずだ。シェイリィには、デュオンの即位当時、すでに王の子供が居た。カレンには居なかった。つまりは――そういうことだ」
「へえ…」
王様にとっては、自分の後継者――つまり、子供を生んでくれた女性が、何よりも大切な存在となる。
いくら本人たちが愛し合っていても、二人の間に子供がいなければ、女性の地位が高くなることはない。
カイオスが言いたかったのは、そういうことなのだろう。
相槌を打ってから、ティナはもう一つだけ聞いてみた。
「カレンは、自分が第一女王になれなかった後、どうなったわけ?」
言葉を発してから、答えを聞くまでの間、少し心臓がどきどきしていた。
だが耳にこだましたのは、さあな、というそっけない答え。
一気に、気が抜けた気がした。
「さあ…って。分かってないの?」
聞き返せば、簡潔な言葉が降ってくる。
「記録がない」
「そうなんだ…」
「当時の女性の地位は、相当低いからな」
つまり、たとえ正妃だったとしても、第一王女から外された者、記録されるほどのものではない、と言うことらしい。
「うん」
「ただ、異民族に第一女王の座をとられて憤死した、というのが、よく言われることだ」
「…」
つまり、『本当のところ』というのは、誰にも分からないのだ。
ティナはほっと息をついた。
気が済んだか、といった風に口を閉じたカイオスを横に、一人しばし迷う。
言い出すべきか、それとも自分の中にしまっておくべきか。
考えに考えてみた末、ま、いいかと思って、ティナは結局言葉にしてみることにした。
「ねえ」
「まだ何かあるのか」
「ごめん、これで多分最後だからさ」
「…」
呆れたような調子で、なんだ、と言ったカイオスに、ティナは慎重に切り出す。
微かにこちらを向いた青い目に、自身の紫の目を重ねるようにして、
「もしも、…もしも、よ。カレンが妾――」
その時だった。
海底都市が、震撼した。
|