――南方守護府 領主の館前
「それでは、お気をつけて」
まだ誰も起きていない早朝、薄暗い空気の中を領主自ら起き出して、シルヴァードはカイオスにやんわりと告げた。
「…」
こちらは目礼を返した左大臣は、さっさと馬の手綱を引く。
さすがに街の中では馬は乗れない。
さっそく歩き出した彼の背に、南方守護府の領主の声が掛けられた。
「カイオス殿」
「…」
振り向けば、シルヴァードの蒼色の目が、真摯にこちらを見つめていた。
「失礼を承知で一つお聞きしても?」
「何か」
短く返せば、多少の逡巡がある。
やがて、しっかりとこちらを見返した南方の領主は、芯の通った声で告げた。
「私は――あなたを異国の人間だからと侮ったことはないつもりです」
「…」
「その上でお聞きします。あなたが、闇の石版を持ち出したということは、真実ですか?」
南方にいては、中央のごたごたも正確なところはつかめない。
『誰か』が彼を国から追い出すために、『陥れた』可能性もないわけではない。
それを示唆しながら紡ぐと、眼前の左大臣は、意外にも笑った。
口の端を微かに上げただけの、どこか不敵な笑みだった。
「残念だが、真実だ」
「…」
「悪いが、姦計にハマるにしても、もっとうまくやるさ」
シルヴァードの懸念をふいにするような声の調子だった。
だが、それはシルヴァードに新たな疑念を生ませる。
では、彼はなぜ、石版など持ち出したのか。
「…」
視線で語りかけながら、領主は待つ。
それをあえて受け流すように、カイオスは沈黙をはさんだ。
やがて、低く言った。
「…事情があった」
「それは、あなたに似た男の出現と関係があるのですか」
「好きに想像すればいい」
軽く言い放つ、その視線は平静そのものだ。
昨日その話題を振ったときに見せた静かな激情は、片鱗もそこにない。
「…」
シルヴァードは少し息をついた。
最後の懸念を慎重に口にした。
「…あなたに『事情』があり、それが石版を持ち出させたとして、今はその問題は解決しているのですか?」
「…」
「またあなたに、石版を持ち出さざるを得なくさせるような事由は、ないと言えますか」
シルヴァードの言葉を、カイオスはただ聞いていた。
やがて、いった。
「さあな」
「それは…!!」
「今に分かる」
なぞめいた言葉だけを残して、カイオスは踵を返す。
今度はかける言葉もなく、領主はその背を見送るしかなかった。
■
未だ眠った街の中を抜け、城壁にさしかかる頃に、カイオス・レリュードはふと立ち止まった。
自然な動作でふと動きを止め、自然な動作でさらりと振り返る。
空気すらも揺らさない動きで、視界を映した青い眼がすっと細まった。
寝静まった街。
薄暗い街道。
誰一人、起き出している者などいない、無人の空間――。
「…」
すっと目を細め、彼は冷え冷えとした南の国の空気へと音を紡いだ。
「いつまで付いてくる気だ」
冷気を割いた声は、深々と吸い込まれていく。
それが溶けるように消えても、彼はそこから動かなかった。
確信を持って、彼はその場に立ち続ける。
「…」
やがて。
「――バレちゃったかー」
街角から現れたのは、意外なことに女の二人連れだった。
蒼い髪の女、そして青銀の髪の異民族。
それぞれが、男性を一瞬でとりこにするような華やかな笑みを浮かべて、左大臣を見つめていたが、見つめられた方は、不審そうに目を細めただけ。
「…」
問いかける視線に応えるように、青銀髪の女の方が、ふっと口角を吊り上げた。
「ちょっとね、連れを探していて。あなた、その連れによく似てるから、ちょっとツけてたの」
「…」
「お兄さん、知らない? 『ダグラス』とかいうの」
「あなたと同じ金の髪と青の目を持っていますの。この国に来ていると思うんですけれど」
青銀髪の少女の言葉に加えるように、蒼い髪の女が告げた。
蒼い髪――連れの女の紫の瞳には及ばないが、これも珍しい髪色だ。
そういえば、あの女の話に出てきた女も『蒼い』髪の女だったか、と彼はふと考えた。
その間にも女たちは、彼の返事を待つようにじっと見上げ続けている。
並みの男なら動揺しないはずのない光景だったが、応えた左大臣の声はどこまでも冷静だった。
「知らないな」
「そうなの?」
「ああ」
斬って捨てるように彼は言い置き、彼女たちの反応を待たず歩き始める。
後ろで声が上がったが、急ぐので、とだけ告げて振り返らずに城門を出た。
さすがに追ってくる様子はなかったが。
(ダグラス…)
馬にまたがろうとしたその身体が、ふと止まる。
何か思案するように間を置いて、カイオスはその末に息をついた。
『ダグラス』が女とともにルーラに来ている。
何の目的か。
(………)
自身の自問に対して、彼は再び動きを止めた。
『何の目的か』。
決まっている。
七君主の命令があって、『何か』をなすために動いているのだろう。
あれが行動するのは、それ以外ない。
ではその『何か』とは、何なのだろうか。
「…」
――またあなたに、石版を持ち出さざるを得なくさせるような事由は、ないと言えますか
真摯な面持ちで問うた南方守護府の領主の言葉が、脳裏をちらりと掠めた。
「…」
馬にまたがり、手綱を引く。
彼方の目的地を見据え、彼は目を地平線に遣った。
それにしても、あの男が女と旅路をともにするとは。
(…)
女、と浮かんだあたりで、さきほどの二人組みのうち、青銀髪の方のことがふと蘇った。
人の趣味に口を出す気は毛頭なかったが。
(変わった人間もいる)
そうとだけ胸中におとして、彼は馬を走らせ始めた。
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