――???
四方が、白い壁だった。
遥か高いところにある天窓からの光が、微かに『昼』と『夜』の明暗を伝える。
部屋のほとんど全てを占めるのは、うずたかく詰め込まれた本棚と、それにすら入らない大量の本。
紙とインクの匂い。
非人間的な空間に、佇むのは、一人の少年。
扉を閉ざされ、ぽつねんと立ち尽くし、途方にくれた様子で立っている。
くすんだ色の金の髪。
純粋な光を宿した瞳。
がりがりに痩せた腕が、色白い肌と相成って、ひどく不健康だった。
日に三度は『食べ物』が運ばれ、時が来れば寝て起きる。
単調な生活。
ただ起きて、ただ食べて、ただ寝て。
そして、毎日のように部屋を訪ねてくる男。
少年と同じ、金の髪。
そこだけちがう、赤い瞳。
狂気にゆがんだ顔をして、彼は笑いながら少年をなじる。
――失敗作。
それは、少年にとっては、よく理解できない言葉だったが、褒められているのではないことだけは、確実だった。
赤い狂気の『ダグラス』。
青い優越の『ダグラス』。
意思のない『その他』。
少年の周囲には、その三つの『物体』しか存在しなかったし、彼自身、その中の一部品に過ぎなかった。
ただ起きて、ただ食べて、ただ寝る。
何も考えなければ、そのまま時は過ぎていき、何か考えていても、深い疑問符のスパイラルに結局思考を止めてしまう。
自分は『何』なのか。
どうして『ここ』にいるのか。
なぜ。
なぜ。
なぜ。
ただ、あるのは、『生きていくのに』最低限の環境。
彼には、それは特に魅力のあることではなかった。
だが、そんな少年にも一つだけ心躍ることがあった。
目もくらむような大量の本たち。
その中には、少年の知らない、様々な出来事が書かれていた。
この世の成り立ちと神話。
確固たる意思と血と涙でつづられた、数多の英雄の物語。
壮大な抒情詩。
国と国との戦争とつかの間の平和。
不自然な歴史の空白。
人と人が共存するための方法。
魔法のこと。
男と女の恋物語。
美しい言葉でつづられた歌劇。
いろいろな国。
法と人のあり方。
空の青さと、海の青さ。
自然と言う名の、美しい楽園。
――全てが、色鮮やかに、少年をひきつけた。
彼は、夢中でそれらを読みあさった。
その世界にいるときは、彼は『一人』ではなかった。
そのひと時だけは、わずらわしい赤い目に邪魔をされることなく、彼は思う存分に楽しむことができた。
そして、いつしか願うようになった。
いつか――そんな楽園を実際に見てみたい。
そんな楽園の中で、生きていきたいと。
人が人と交わり、ともに笑い、ともに生きる――
そんな、世界に。
「…」
白い天井を見つめて、白い天井の高い窓に開けられた、窓を見つめて。
彼が逃げ出そうと思うのに、時間はかからなかった。
そして、少年の信じた『楽園』がいかに儚いものであったか、思い知ることも。
■
「…ん」
ふっと浅い眠りからさめて、ティナは目をこすった。
明るい林道、小鳥がさえずる鳴き声が、微かに聞こえてくる。
隣りでアベルは眠っている。
クルスも。
アルフェリアだけは、火の番で起きていたが。
昨晩寝たままの、野宿の風景。
堕天使の聖堂までは、あと少しだ。
「随分と早いな」
寝ている少年少女への配慮か――小声で話しかけられて、ティナは軽く頷いた。
「何か…変な夢見ちゃって」
「夢?」
「うん」
子供がいた。
本に囲まれて、その本の世界を愛していた子供。
金の髪、青い瞳――
そして、子供は祈っていた。
太陽をこの目で見たいと。
「何か…どっかで見たことのあるよーなのが、出てきたのよね…」
「へえ」
口の端で笑ったアルフェリアは、小さくあくびをする。
せっかくだから、少し寝ていいか、と言われて、うん、とティナは頷いた。
そのまますっと目を閉じた彼を尻目に、少し『夢』を思い起こしてみる。
本に囲まれた子供。
そして、覗きに来ていたまったく同じ容姿の、瞳の色が異なる少年――
「…」
ふう、とティナは息をつく。
誰かの、と言われれば、思い当たる人間は一人だけだ。
だが。
(アレが?)
まあ、夢だし。
と、捨て去ってしまえばいい話だが、自分の『夢』は、なかなか侮れない。
これが本当に『彼』に関する夢なのかどうか…
(また…随分雰囲気ちがう感じ)
夢の中の少年は、彼女が知っている、腹の立つほどの冷静さと、ふてぶてしいほどの余裕はなく、どこか、捨てられた子犬のような感じがした。
――といっても、『感じ』だけど。
(あのあと…どうなったのかな)
見る前に冷めてしまった、夢の続き。
『彼』がどうとかではなくて、単純に気になってしまう。
こんなとき、自分の見る『夢』が好きに選べたらいいのに、とは都合のよすぎる話だろうが。
「…」
ふと、彼女は、夢の中の少年が現実の『あの男』だった場合を考えてみた。
七君主の元にいた、彼。
そして、七君主の話を本当だと仮定すると、彼は『逃げ出して』、たくさんの追っ手を殺した『同胞殺し』となった…――
(あれが?)
ティナは不審に眉をひそめる。
あの、虫も殺せないような、弱々しい少年が?
逃げて、人殺しに?
(…まあ、所詮は夢だし)
別に、彼女の見る夢全てが、何かしら『現実』に的中しているわけではない。
普通の意味のない夢だってちゃんと見る。
ただ、あまりに鮮烈なものは、はっきりと覚えているし、それが『現実』であることも多いのだけれども。
「………」
南のルーラと言えども、早朝の空気は冷たくて、彼女は膝を抱えた。
仲間たちは、すやすやと寝入っている。
そんなのどかな様子を眺めながら、彼女はふと副船長とルーラの姫君に思いを馳せた。
ジェイドはちゃんと姫を救い出すことができただろうか。
そして、十日ほどの別行動なのに、ずいぶんとあってない気もする『彼』――
「………」
堕天使の聖堂近くの村で、落ち合うことになっている。
まあ、距離的に言えば、例え馬を使ったとしても、最低五日ほどはどうしても彼の方が遅れてしまうのだけれども。
たくさん、聞きたいことがある。
答えてくれるかどうかは分からないが。
今はどのあたりを旅しているのかしらね、と彼女はふっと白いため息をついた。
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