Lost Words
    神は始め、天地を創造された。「光あれ。」――こうして、光があった。
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  第三章 それぞれの思い 
* * *
――???



「………っ」
 誰かが、泣いている声がする。



「失敗作」。
 そう、呼ばれるのに抵抗があったわけではなかった。
 狭い部屋に、大量の本の山。
 明るいときがあって、暗いときがある。
 ときは巡って淡々と過ぎていく。
 時々訪れるのは、赤い目をした少年。
 『失敗作』と軽蔑した調子で呼んで、そしていろいろな話をした。
 『七君主』と呼ばれる自分が、がいかに優れているのか。
 そしてこちらがいかに劣っているのか。
 こちらを誰も必要としていないこと。
 そして、自分が『禁』を犯すために『つくられた』捨て駒であること…――。
 
「………」
 抵抗はなかったが、心地よいものではなかった。
 部屋には明るい『時』があり、暗い『時』があって、ただ淡々と巡っていた。
 持て余した『時』を潰すために開いた本には、しかし、彼の知らない、赤い目の少年の話したことのない、さまざまなことが書かれていた。
 一度も踏み出したことのない部屋の中で、彼はいろいろなものを『見た』。
 高原を吹く風。葉を揺らす木々の森。
 徘徊する異形の魔物。それらと戦う人々の話。
 人を守護する精霊たち。
 戦いの歴史。
 天地の創造。そして、悲劇に彩られた伝説の数々。
 すばらしい歌曲たち。
 美しい自然の秩序と、それに支えられた魔法の理論。

 その全てが。
 色鮮やかなものに彼には映った。
 高い高い部屋の天窓を見つめて、彼は考えた。
 例えば――。
 もしもここから『逃げる』ことができたなら…。



「………っ」
 誰かが泣いている声がする。
 たとえば、もしも。
 永遠に『あそこ』にいたのならば。
 太陽が照らし、月が照らし、ただ去っていくだけのあの部屋にいたならば。
 おそらく『こんな目』には遭わなかった。
 天窓から外に出た少年に待っていたのは、住む家も食べるものすらない貧困と、赤い目をした少年の、執拗な追跡。
 その追跡から逃れるために、『さまざまなこと』をした。
 『生きて』いくために、『いろいろなもの』を捨てた。
 そして――。



「………」
 目を見開いた『彼』は、眼前の景色をじっと見据えていた。
 おびただしい黒の水溜りが、もの凄まじい臭気を放って『彼』の五感を刺激した。
 それは、その強さともあいまって、強烈な過去への回帰を強制した。
 肩を震わせる少年。
 飛び散った人間の『破片』。
 それは、意思を持ちえない存在だったが、自らと同じ『作られた者』だった。

「…っ」

 『誰か』が――『過去』が泣いている声がする。
 それは、生き延びるために、不要な感情だった。ためらっていれば、自分が死ぬ。
 七君主の追跡は執拗だった。
 逃げているだけでは、身を守ることができなかった。
 刃を使わなければ――自分と同じ境遇の『分身』を、殺さなければ――。

「…」

 何人殺したか、覚えていない。
 ただ、始めて浴びた人間の血は、拭えないぬくもりを持っていた。
 戦いの要領だけは、みるみるうちに上達していった。
 人を殺す技術。
 だが、それを覚えても、生活の程度は変わらなかった。
 ひたすら身を隠し、人と関わらない生活を続け、まみれる血の色だけが、深さを増していった。
 そして、たどり着いたあの国で――



 ――ヤア、僕ノ ダグラス。

 見開いた目の先で、赤い目をした幻が微笑む。
 いつの間にか、肩を震わせて泣く少年は、いなかった。
 代わりに、まっすぐとこちらを刺し貫いた真紅のきらめきと、『彼』は正面から向き合っていた。
 それは、彼に否応なく一つの情景を思い出させる――。

 あれは、前左大臣バティーダ・ホーウェルンの推薦によって、ミルガウス国左大臣を拝命して二年。所用で城の渡り廊下を歩いていたときのことだった。
 別に、退屈な日常を過ごしていたと言うつもりも、充実してかなわない日々を送っていたと言うつもりも無い。
 ただ、まるで自分がその国の人間になったかのような錯覚を抱いていた…そんな時分の出来事だった。
 人のいない庭園で、『彼』は、しばらくナリをひそめていた、その存在と再会した。
 赤い目で、笑った七君主は、決して答えの出ない二択を、笑いながら突きつけてきた。

 ――君ニ命令ダヨ。『コノ国ノ闇ノ石版ヲトッテコイ』。

 ――イヤ、ダトハ言ワセナイヨ。『ミルガウスノ左大臣殿』?

 ――確カニ石版ヲ僕ニ渡ス事ハ、世界ノ破滅ヲ意味シテルケド…

 ――モシモイヤダトイッタラ、ソノ時ハ



 この国が、滅ぶよ…。



 赤い目の七君主は、暗闇の中で微笑みながら、告げた。
 それは勝者の優越でもって、見つめる彼の鼓膜に、絶望的に突き刺さった。


「来たぞ」
 短く言って、ダグラス・セントア・ブルグレアは、にやりとした口の端をその青年に向けた。
 あれから――この場所に『意思をなくした』彼を引き連れて戻ってきてから、一日と半分ほどの時間が過ぎ去ろうとしている。
 『死に絶えた都』の周辺には、七君主の結界が張ってあり、その結界に踏み込んだ『人間』がいる――と。
 彼は、報告を受けたのだ。
 その『人間たち』を――失敗作を使って、排除してこい、と。
「ふ…ふふ………。ははっ」
 ダグラスは、笑う。
 優越と、嘲りの笑みだ。
 かつての『仲間』たちは、どんな顔をするだろうか。
 どんな顔をして、殺しあうだろうか。
 この、自分たちの『仲間』である、できそこないの『ダグラス』と。
「ふふふ…」
 陽炎の彼方。
 砂塵の向こうから現れつつある二つの影は、こちらの姿にやがて気付くと、弾かれたように動きを止めた。
 小さい影――茶色い髪をした少年が、そのふさふさの髪を揺らして叫ぶ。
「カイオス!」
「――違うな」
 呼ばれた名に、ダグラスはぼそりと呟いた。
 それは、ヤツが裏切っていたときの、偽りの名に過ぎない。
 そう、彼は――
「ダグラス、行け」
 そう、命じると。
「………」
 意思のない彼の体は、素直にそれに従った。
 それをただただほくそえんで見つめながら、ダグラスは優越のなかで嘲笑していた。
 ばかなヤツらめ…
 せいぜい、殺しあうがいい、と。

* * *
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