Lost Words
    神は始め、天地を創造された。「光あれ。」――こうして、光があった。
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  第三章 雪降る村の記憶
* * *
「え! あの羽男の名前、あんたも知らないの!?」
 白の学院は、先ほど怪我人の出た事故があったと思えないほど、相変わらずの喧騒に包まれていた。
 むしろ、暮れ行く太陽に負けるものかと、街が一体となって、最後の盛り上がりへ駆け上がっているようにも見える。
 隣を歩く相手の言葉も拾いづらい状況で、それでもティナは青年がぼそりとこぼしたその言葉に、驚いて振り返った。
「だって、あの人あんたの…その、師匠、だったんでしょ? 名前くらい」
「………成り行きで、仕方なく、一緒に行動してただけだ」
 カイオス・レリュードは眉をひそめている。
 その足の運びは自然で、どこにも違和感はないように見えて、彼は右足を負傷している。その手前、平常どおりの体調であるはずはないのだが、彼が表情をしかめている理由は別にあるのだろう。
「…ひょっとして、あんまり会いたくなかった人だったとか?」
「………」
 ティナは以前、カイオス・レリュードの『幻』と会っている。
 七君主に操られ、意思を失くしたカイオスの中に居場所を奪われ、その少年は幽霊のような体で、ティナの前に現れた。
 青年の本心が分からない――そう訴えたティナに、少年は言った。
 『平然としているからって超人ではないし、何を言われても平気なわけじゃない』。
 特に、七君主に作られた青年が、七君主の元から逃げ出して、ミルガウスにたどり着くまでの数年間――彼の口からそのときのことを耳にしたことはない。
 だが、ティナ自身は知っていた――何度か目にした『夢』の中で。
 限界まで痩せた細い腕で、剣を握り、自分が殺した『ダグラス』たちを前に、ごめんなさい、と誤り続ける少年の姿――。
 それが目の前の青年の過去なのかどうか、確実な確信を持てる証拠は無い。
 だが今回、あの羽男に出会って――そして、台風のようにその存在が通り過ぎた今になって、ティナはあの羽男が、出会った当時のカイオス・レリュードにとって、どんな存在だったのか、考えてみた。
 その答えは、まだ良く分からない。だが、一つだけ分かったことがある――彼は、『一人』ではなかったんだな、と。
「まあ、見るからにあんたとは正反対の人よねぇ。軽いし、意味分からないこと言うし、派手だし。昔っからそうなの?」
「俺が知る限りでは」
「うん」
「女を口説くたびに、違う名前を名乗ってたな」
「…そ、そうなの」
「ああ」
 だから、本当の名前は知らないんだ、と彼は肩をすくめて締めくくった。
 ティナは、何気なく返してみる。
「あんたは、聞いてみなかったの?」
「何を」
「彼に、直接、本当の名前を」
「…聞いたとして、それが『本当』だと判断する根拠がない」
「まあ、そうなんだけど」
 ティナは、空を見上げてみた。
 何人もの人間に蓋をされた町の上には、何者にも縛られない空気が、自由に吹き渡っている。
「あの男、あんたにはウソつかなそうな気がするのよね。何か、二人を見てると…こう、師匠っていうより、友達? というか…」
「…」
「悪友って感じがしたから」
「冗談だろ」
「うーん…」
 ティナは、言ったものの、確信が持てることでもなく、あいまいに濁しながら、視線を泳がせた。
 なんとなく、浮かんだ言葉を、浮かんだまま口に出す。
「だって、あんたも、あの羽男に何か頼み事、したんでしょう? あんたが人にモノを頼むなんて、めったに無いことなんだし」
「まあ、それは…」
 カイオスもまた、言葉を濁した。
 思案するように、沈黙をはさむ。
 別に、その間が気まずかったわけではないが、ティナは何となく下を向いた。
 相手の内面に踏み込む事柄を、こんなに気安く投げかけていい相手だっただろうか。
 最近、相手の態度が軟化していることをいいことに、距離感を踏み荒らしているかも知れない。
(気を悪くした…ってことは、ないと思うけど)
 気をつけないと、と思ったところで、相手が口を開いた。
「不穏な動きがある」
「不穏な?」
「ああ。アクアヴェイルが――」
 言いかけた言葉が、場所を思い出したように、止まった。
「…」
 思わず、自分が息をひそめたティナの隣で、青年はため息をついて、言葉を正した。
「いや、外交上、ちょっとした懸念がある。その調査を依頼した」
「ふーん」
 やっぱり信頼してるんじゃない、とティナは思ったが、相手に悪いので音にするのはやめた。
 その代わり、彼が口に仕掛けた、『アクアヴェイル』という言葉について、思いを馳せる。
 長い間、ゼルリアとミルガウスと戦争状態にある国。
 現太政大臣のエルガイズの功績で、現在は停戦状態が保たれている。
 だが、ティナが過去に訪れたルーラ国では、秘密裏にアクアヴェイルやシェーレンに密書を送り、同盟を持ちかけようとする動きがあると、アルフェリアが語っていた。
 アルフェリアが知っている、ということは、当然カイオス・レリュードも知る事実、ということだ。
 また、戦争が起こるのだろうか。
 ティナは、ふと周囲の喧騒を見回した。
 人々は、祭りに浮かれ、誰も彼も笑顔で、はしゃぎまくっている。
 誰も、自分たちの海を挟んだ隣国で、不穏な動きがあることを、知らない――それが、『戦争』という形になって、始めて、その存在に気づく。そして、その時には、もう逃れられない渦中に巻き込まれている。
(それを、させないために、調査を依頼したってこと…よね)
 ただ、現在のカイオス・レリュードは、アレントゥムの一件で、謹慎処分に処されている。だから、表立って動く必要はないし、動くことも許されない。だが、一見平静に見える青年の心情がどこにあるのか――ティナは、そっと隣を見た。
 そして、ん、と瞬いた。
 彼は、喧騒の向こう、どこか遠くを見つめて、眉をひそめている。
 ティナは、無言でその視線を追った。
 そして、彼女もまた、息を呑んだ。
 いつの間にか、二人は白の学院の正面玄関を間近に控える、一番の大通りを進んでいた。
 その正面玄関を、優美な足取りでくぐる人物がある。
 踊り狂う人々の向こう側に見えた人物――輪郭はあるのに、実体が捕らえられない――そんな印象を持った、なぞの人影。
「ストラジェス…」
 自分が呟いた言葉を、ティナは空虚な言霊を聞くように、拾っていた。
 ストラジェス。
 どうして、その言葉を思い浮かべたのか、分からないまま――。
 その人物は、喧騒の中、静かに、縫いとめるように、こちらを見据えていた。

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