「後の歴史が、それをなんて評価するか、実はちょっと興味があったんだけどね。だけど、結局歴史は忘れ去られてしまった」
その男と少年は、向かい合って言葉を交わしていた。
幾度となく感じた――『実体があるのにない』男と、白い法衣を着た少年。
「久しぶりだね。『シェキア・リアーゼ』」
ティナは、その光景を見ていた。
さあさあと清涼な水の音が辺りに満ち、蒼い石を敷き詰めた空間に幾重にも響き渡っている。
向かい合う二人の間には、目に見えない時間の断絶があるように見えた。
場所と空間を超えて相対している感覚。
それは、旧知の人間が久々に出会う懐古とはかけ離れて、長きにわたる因縁めいた葛藤を見るものに伝えている。
「…ストラジェス、か」
「それは、前の名前。現在の名は、『ケイン・カーティス・アクアヴェイル』」
少年の表情は、逼迫していた。
何かを恐れているように見えた。
「悲しき英雄、か。それは勝者が敗者に突きつけた驕りだよ。そうは思わないかい?」
対する男の声は、どこか楽しげだった。
おびえる弱者を追い詰める愉悦。
「そうかも知れない。だけど、その行動によって、君が一人の女性を悲しませた事実は、決して覆せない」
「ああ、ティアーナか。あれは、僕が悪いんじゃない。彼女が…――裏切ったんだ」
『ティアーナ』。
その名を聞いたとき、彼女の中の一部分が、ずきんと痛んだ。
直感した。
それが、自分の『本当の名前』だと。
「ストラジェス」
「お前の背後にある、その『祭壇』――僕の神具。返してもらおうか?」
「…これは、いまや神剣の力の波動を調整する要のものだよ。それを君に――むざむざと、渡すと思うかい?」
男は、少年との距離を一歩、つめた。
少年は、押されるように退いた。
二人の間にあった危うい均衡は、完全に崩壊した。
少年は、明らかに、その存在を恐れていた。
「ふうん、随分と生意気な口を利くね、『偽者の』巫女。今ださまよう、現世(うつしよ)の亡霊」
男は、少年に対し、手を掲げる。
手のひらから光が溢れ、膨張し、少年を飲み込んでいく。
それは、その光景を呆然と見つめるティナをも、じわじわと侵食していった。
緩慢な恐怖。
一瞬目を閉じかけた瞬間、足元がふらついて、意識が途切れた。
■
「!」
ティナは、目を見開いた。
さあさあと、水の音がする。
(白昼夢…?)
自分の目が、『確かに見た』、幻。
この部屋で起こった過去の出来事を、無意識に見てしまったのか。
蒼い石の敷き詰められた円形の広場。
カイオス・レリュードの言葉を信じれば――今まで誰一人としてたどり着いた者が居ないはずの場所。
その中に人間が立っている。
立っている――というより、石の祭壇に寄りかかって、かろうじて呼吸をしていた。
血まみれだった。
「ちょっと、あんた!」
思わず駆け出したティナの腕を、誰かがつかむ。
白昼夢に引きずられて、自らの同行者を完全に失念していた。
「むやみに、近づかない方がいい」
瀕死の重傷を負った人間を前に、冷静とも冷酷とも取れる言葉を放ったカイオスは、ティナの勢いに引きずられるように、少し体勢を崩して眉をしかめた。
「あれが『無害な人間』だという保証はない」
「…それは、そうだけど」
今まで一度も通じたことのない通路の先にいた『人間』。
確かに、そんな場所にいる存在が、『普通の』人間であるとは考えにくい。
だが、彼女の中の何かが必死に声を上げていた。
(私は、あの子を知っている…)
思い出そうとしても、思い出せない。
もどかしい思いが、鼓動と一緒に身体を巡り、消化不良に似た不快感を抱かせる。
「…ティアーナ」
か細い声がして、彼女ははっとそちらを振り向いた。
少年は、彼女の姿を見止めて、安堵に似た表情を浮かべたようだった。
そのままずるずると座り込む。
その瞳は、自らと同じ、紫欄の色を放っていた。
それを見たとき、彼女の強固な記憶の扉が、音を立てて開いた。
一筋の、記憶の光。
「シェキア・リアーゼ」
か細く開いたと扉の綻びから、こぼれるように湧き上がった一つの言葉。
呟いた名前が、鎖が繋がるように、数々の記憶を手繰り寄せる。
鎖は幾重にも連なり、扉をこじ開け、大量の記憶をティナの中に流し込んだ。
その奔流に一瞬めまいがしたが、ティナは振り払うように目を閉じると、カイオスの方を仰ぎ見た。
「彼は、敵じゃないわ。大丈夫」
「………」
青年は、不審そうに眉根を寄せる。
確信を持って言い切るティナの様子に、何かを察したらしい。
「お前の知り合いか?」
「ええ」
思い出した。
――思い出してしまった。
自分は、『不死鳥憑きの巫女』。
100年前に生贄として死ぬはずだった――狂った戦争を止められなかった、哀れな巫女だ。
「彼は、『シェキア・リアーゼ』」
ティナは、自らを掴んだ青年の手をそっと解くと、ためらいなく歩き出した。
自分は何者か。どうして『時間を超えた』のか。
どうして――記憶を失ったのか。
「私の、弟よ」
彼女は振り返る。
何かを問いかけるような青年の視線を受けて、確信を持って頷いた。
「思い出したの」
――思い出してしまった。
その記憶は、覚悟していたほど、劇的に彼女の『何か』を変えたわけではなかった。
ただ、厳然とした『事実』として、すとん、と胸のなかに収まった。
それは、何かの始まりのようにも思えた。
何かの、『終わり』のようにも、思えた。
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